2012/12/27 年末のご挨拶と事務所開所の御礼
平成24年も大詰めとなりました。
私奥田雅楽之一は本年も沢山の方々に支えられ、
お陰さまの一年を過ごすことができました。
ここに、謹んで御礼を申し上げます。
今年は正派が公益財団法人になったこと、
おもだかやの襲名披露のこと、
恩師を失ったこと、
その他各地への遠征、
またそれに際する出会い、本当に色々ありました。
私生活では、なぜかインコを飼いまして、
これが私の精神衛生上で無類の力を発揮したのは、
もはや冗談では済まされません。
来年は『ペットのススメ』っていう本でも書こうかな。(笑)
そんな私が今年の集大成と位置付けて取り掛かりましたのが
『奥田雅楽之一事務所』のスタートです。
まず、この度の当事務局開所に際しまして、
本当に沢山の方々から身に余るお心遣いを賜りました。
私はもちろん、事務員一同大変嬉しく、
大いに勇気付けられました。
ご期待に応えられるような役割を果たし、
皆々様のご厚意に恩返し出来るよう一生懸命に仕事を致します。
後日、改めて御礼をさせて頂きますが、
まずは当ページ上での御礼となりますこと、お許し下さいませ。
さて、この奥田雅楽之一事務所。
やや私も内輪での盛り上がりに目が眩んでおりますが、
外から見たら何をする事務所なのか、
不明な点が多い現状を少しずつ正していかねばなりません。
簡単に説明します。
奥田雅楽之一事務所は、
第一に、奥田雅楽之一の活動の母体である正派邦楽会の補助を最優先任務として、
第二に、奥田雅楽之一個人で請け負う活動の補助、
第三は、沢山の方々にお越し頂ける会合の拠点としての役割を期待してます。
いずれにせよ、皆様の能動的、
かつ積極的な御姿勢がなければ本来の役割を果たせないオフィスなので、
どうか二の足を踏むことなく、
積極的にご連絡を頂ければ一同嬉しく存じます。
願わくば、是非一度、お気軽に遊びにいらして下さい。
年内は流動的に対応しておりますが、
年明けから、シフトを組んで対応させて頂くことになりそうです。
まだまだ不行き届きばかりですが、
少しずつ体制を整えていきますので、末永くお見守り頂ければ幸いです。
奥田雅楽之一事務所。場所は千代田区一番町。
『一』が好きな私らしい、良い場所でのスタートです。
最後になりましたが、来年は正派創始百周年。
六月には大きな演奏会があります。
出演者一千人超!出演者はもちろん、そのご家族、関係者、
沢山の方々のご協力を仰ぐ一年になりますこと、必至です。
御尽力をお願い申し上げ、本年の結びのご挨拶とさせて頂きます。
当方ブログをご高覧の皆々様にとりまして、
平成25年が健やかな一年となりますよう、心より祈念致します。
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2012/11/16 奥田雅楽之一事務所
既に当方Twitter等でご案内しておりますが、
近く、私は自分の事務所を開くことに致しました。
その名も『奥田雅楽之一事務所』(はい普通の名前です)、
場所は英国大使館のある東京都千代田区一番町です。
といいますのは、昨今、私は芸の研鑽に影響が出るくらい
(本当はそんなことがあってはいけないのですが)
組織改革のこと、
例えば正派の時代に合わなくなってきた諸々の改善、
来年の百周年記念事業のこと、
音楽院のこと、楽道という正派の機刊紙の企画記事や、
メルマガnoichiの仕事もあり、
もうそれはそれは膨大な資料を目の前にし、
弁護士さんや税理士さんとやりとりする機会も多くなるにつれて、
時々資料が混同したりするミスもあったので、
いよいよその山の如き書類の整理を迫られておりました。
そのイライラ(なんて言っちゃいけませんが)が、
先月ついにドッカーンと爆発してある種のパワーとなり、
気持ち的にも経済的にも、
かなり思い切ることができたんだと思います。
今、事務所開きの準備を進めています。
近く、事務所の固定電話が開通しましたら、
皆様のご連絡をお受け出来る状態になるかと存じます。
留守電の声も、僕が肉声を録音して入れられるよう、
今から独創的な留守電のメッセージを考えておきます。(笑)
と、冗談はこれくらいにしておいて、
どうか今後とも、正派邦楽会・奥田雅楽之一、
並びに『奥田雅楽之一事務所』のご贔屓、ご鞭撻の程、
よろしくお願い申し上げます。
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2012/10/29 新しい正派邦楽会へ
正派邦楽会では今、様々な部署で見直しが行われています。
表向き(皆様にとってわかり易いこと)では、
公益財団法人の認可が下りたこと、それに伴い役員の一新が行われました。
経営する寺子屋•正派音楽院では
新しくアメリカ人講師による英語授業を加えてみたり、
一方では正派のホームページが年内の設立を目指していたりと、
まあとにかく、渦がうごめき始めています。
そうそう、それからもう一つ大事なことが決まりました。
来月の機刊紙•楽道に掲載されますが、
この度正派邦楽会役員は、
会員の意見をダイレクトに反映させる為『会員の声ポスト』を設置致します。
投稿の方法等につきましては、来月の楽道を御参照下さいませ。
よろしくお願いします。
私も、将来を見据えた先輩方のご配慮により、
いよいよ新役員に加えて頂き、勉強の日々を送っています。
新役員の分際にしては、
かなり出しゃばってしまっているのかもしれませんが、
全国の大切な会員を代表しているという責任を強く感じて、
言うべきことは言うように努めています。
初代家元の逝去から33年の月日が経ちましたが、
二代目の中島靖子家元は浮き沈みの激しい時代を耐え、
これだけの大所帯を見事に守り抜いて来られました。
その苦労は筆舌に尽くし難いこと。
その家元も、年が明けますと目出度く米寿を迎えることとなり、
孫の私と致しましても心から祝福すると同時に、
もう余り苦労はかけたくないと願うばかりです。
家元に苦労をかけないのも、正派を永続させるのも、
誤解を恐れずに言えば、当方が賢く頼もしくあるか如何なので、
公益法人制度の勉強、家元制度の研究、芸の研鑽、
の三本柱を当面の課題に置き、
日々勉学に励みたいと存じます。
来年の百周年記念演奏会では、
多くの会員に上京をお願いすることとなり、
勿体なく、有難く存じております。
一人でも多くの会員と触れ合うことを心掛けまして、
皆々様に私の顔と名前くらい覚えて頂けたら幸いでございます。
みんなで、明るく楽しく、百周年をお祝いできればと思います。
これから演奏会に向けた練習など、
大切な土日のお休みが潰れてゆくかと存じますが(笑)、
それは参加する皆同じことなので、
ここは、運命共同体で臨みましょう。
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2012/10/10 【追悼】 森雄士先生
私達ファミリーとお付き合いが長く、
ご縁のあった箏曲家•森雄士先生が9月23日未明、御逝去なさいました。
享年84歳。
ご遺族の希望で密葬となり、
後日、その儀を無事お済ましになられましたので、
ここに謹んでご報告を申し上げる次第です。
森雄士先生は昭和4年1月、山形県酒田市でお生まれになられました。
幼少の頃に上京して宮城道雄に師事。
箏、三弦、十七弦、胡弓(宮城胡弓)を学ばれます。
又、尺八を片山雄山に師事、作曲を團伊玖磨、柴田南雄に師事、
さらには山田流箏曲を斎藤松声に師事と、
師に大変恵まれて音楽人生のスタートを切りました。
東京盲学校在学中に戦争になり、
盲学校生徒一行は疎開して時局を乗り過ごし、
終戦後は再び上京して、
本格的に演奏活動を始められることとなりました。
森先生がまず活躍の場を与えられたのは、尺八奏者としてだったそうです。
というのも、宮城道雄先生の作品は『春の海』に代表されるように、
尺八と筝の二重奏の名曲が多く、
当時宮城先生のお側にいらした尺八奏者には
小野衛先生がいらっしゃいましたが、
小野先生はフルート奏者として
交響楽団に所属なさっていた為大変お忙しくいらして、
宮城•森の二重奏で臨む機会が意外に多くあったようです。
やがて森先生に思うところあったようで、
森先生の方から「尺八はこれっきりにして下さい」と宮城先生に直訴なさり、
師も「わかった。」と応じられて、
以降は箏曲家として、宮城先生と演奏旅行などに御同行、
古曲に新曲に、箏に三弦に十七弦に…と、
いわゆるユーティリティにご活躍なさいました。
昭和20年の終戦直後に歌舞伎座で流行した
創作劇『源氏物語』(作曲:宮城道雄)では、
触れたことのない胡弓を急に演奏するよう、
それも本番当日の楽屋で宮城先生にご指名され、
楽屋でお習いしてそのまま胡弓デビューした…というエピソードは、
森先生の才能と、
宮城先生の森クンに対する御評価を汲み取れるように存じます。
また、東京大空襲に焼けた牛込神楽坂の宮城邸を、
戦後立て直すことになり、
その為に必要な材木の一切を森先生の御父様(酒田市で材木屋を営む)が
宮城先生にご寄付なさり、
現在の宮城邸が建ったことも、森先生が宮城先生はじめ、
御門人の方々に大切にされる出来事になったそうです。
昭和31年、宮城先生の訃報をラジオでお聴きになった森先生は、
生前の師の苦労を察して心痛なさいましたが、
ご自身の音楽活動もここが仕切り直しとお思いになられて、
それからは独自の御人脈、お仲間、ファンに愛される音楽家として
羽ばたかれてゆきます。それから間もなく、
生涯の伴侶となられる映子夫人と出会い、
箏曲家•森雄士は熟成されて、
言わずと知れた名手の域へと駆け上がられました。
私は子供の頃から、度々お目にかかって存じ上げていた偉大な先生方が、
何名か記憶にございます。
斎藤松声先生、宮城喜代子先生、衛藤公雄先生、
そして森雄士先生もそのお一人でした。
中でも森先生は、
祖父•唯是震一と互いに絶大な信頼を寄せる芸術家同士でいらしたので、
私達ファミリーも公私に亘ってお付き合いが多く、
そのご縁が、やがて私が森先生のもとへ
お稽古に通わせて頂くことへと結ばれます。
お稽古はじめは平成16年、
祖父母の推薦で胡弓のお稽古に通わせて頂くこととなり、
以降、毎月数回ずつお稽古をして頂けることとなりまして、
主に正派に伝承されていない古曲や、宮城曲を教わりました。
先生のお稽古は思い掛けないことの連続。
例えばお稽古中、先生は咄嗟に箏で尺八や十七弦のパートをお弾きになったり、
三弦で箏のパートをお弾きになったり。
私もしばしば頭が混乱しましたが、
森先生は頭の中で鳴る音を、目の前の楽器や、
或いはタイプライターで即座に打つ能力に長けていらっしゃいましたので、
暗譜するスピードがモーツァルト並みであったと言っても、
それは過言でないかもしれません。
ここ数年は先生が御演奏なさる時の身の回りのお手伝いや、
時々、演奏をご一緒させて頂いたりもして、
その全てが私の一生の宝になりました。
先生のお得意のピアノ曲はビゼーのカルメン。
好きな演奏家はパブロ•カザルス、
ピアニストではウラディミール•ホロビッツ。
大好きな曲はドビュッシー、ラベル…。
頭の中に膨大な曲と無数の音符が刻み込まれていた森先生。
この世界はまた一人名手を失って、寂しくなります。
私も先生に沢山のことを教えて頂いて、又私にとっては家族ではない、
いわゆる他人から芸をお習いした初めての師でもあり、
師を失ったことは本当に寂しいですが、
でも不思議と溢れるのは涙でなく、感謝の気持ちばかり。
筆舌に尽くし難い感謝の気持ちが心の中に広がっています。
これはひょっとしたら、
人間の持てる『尊敬』のなせる業なのかもしれません。
先生がお亡くなりになる前日、
私がお伺いした折に先生は、
宮城先生のこと、斎藤先生のこと、片山先生のこと、唯是さんのこと…
いつも以上に沢山の色々なお話しをして下さったような気がしてます。
その時は私も、まさかこれが最後になるだなんて夢にも思いませんでしたし、
正直に申しまして未だに信じられない部分もあるのですが、
でも、先生はそのくらい呆気なく、苦しまずに逝かれて、
さすが先生お見事な旅立ちでした。
先生が教えて下さったことを
次世代に伝えていくことを自らの義務の一つと定め、
芸道を進んで参りたいと存じます。
森先生、沢山のことを教えて頂き、ありがとうございました。
先生にお目にかかれて、僕は幸せでした。
先生、安らかにお休みになって下さい。
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2012/8/9 さらば積年の悩み
久しぶりに、物凄くプライベートなことを書きます。
タイトルにある積年の悩みとは、
しばしば痛みを発症していた奥歯、いわゆる親不知のことです。
この度、私は親不知を4本全部抜きました。
人間の歯には切歯、犬歯、小臼歯、大臼歯とあるらしくって、
親不知が左右2本生えたとすると、勢揃いで16本、
上下合わせて最大32本あるそうです。
私は子供の頃、よく歯医者さんに通った(嫌な思い出が一杯)お陰様で、
歯だけはいつも優等で通って参りましたが、
大人になってからチラリホラリと虫歯が増え、
とりあえず治療をし終えて、
ここ10年近く歯医者さんに行きませんでした。
10年間で一度も歯医者に通わない人もあまりいないと思いますが、
その10年間で、歯の状況にも少なからず変化がありました。
•親不知が4本生え揃う
•自慢の永久歯がさらに幾つか虫歯になってしまう
•歯石とやらが付着している
等々です。何だか私的過ぎる気がしますが、このまま、続けさせて下さい。
6月初旬、右下の奥歯に痛みが発症して、
それがすぐ親不知付近の炎症だと分かって、
うがい薬でブクブクして誤魔化していましたが、
いよいよ痛みが我慢出来ない段階にきたので、
重たい腰を上げて歯医者さんに行きました。
市ヶ谷近辺には歯医者さんが沢山あるので、
さてどこにしようかと思っていたところ、
我が正派の会員が、
お隣の四ツ谷で歯医者さんをしているということを思い出して、
某先生のご紹介のもと、そちらでお世話になることにしました。
パシャ。パシャ。パシャ。
パシャ。パシャ。パシャパシャ…
と、歯の写真を20枚くらい撮って、詳しく診察。
炎症の原因である親不知は虫歯も発症している為、
抜歯が適当とご判断頂き、
出来れば4本全部抜きたいと思っていた私の願望も手伝って、
10日に一本くらいのペースで抜歯。
8月7日をもって、キレイに全て抜き終えました。
そちらの歯医者さんは、
正派の会員でいらっしゃる女医さんの御主人が開業する歯医者さんで、
つまりご夫婦でなさっている、素敵な歯医者さんです。
その女医さんとは、実はご縁がありました。
それは今から9年前。
国立大劇場で開催された正派創始90周年記念演奏会でのこと。
参加者が1000人超の演奏会にあって舞台裏は大混雑。
そしてその中に、一人お腹の大きい妊婦さんがいるという情報が入り、
その方に何か間違いがあってはいけないので、
僕がその方のお世話役に任命されました。
舞台の袖でお話をしたり、舞台へご案内したり、お迎えに行ったり…
ということがあったなあ、と私は記憶していたのですが、
実は、その方が今回お世話になっている女医さんだとわかり、
私は大変、驚いた次第です。
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2012/7/6 澤冩屋の奇跡
澤冩屋襲名披露、七月大歌舞伎が始まりました。
三代目・市川猿之助⇨二代目・市川猿翁
二代目・市川亀治郎⇨四代目・市川猿之助
香川照之⇨九代目・市川中車
香川政明⇨五代目・市川團子
以上、四名跡の同時襲名。
やってくれました。
おもだかやっ!!
先代の猿之助丈が病に倒れて以降、
澤冩屋一門は大将抜きで興行する試練の8年間を送りました。
思い起こせば実に、
今日の晴れ舞台を迎えるまでに無数の修羅場があったことと察します。
その軌跡を、簡単に振り返ります。
後継者と目されていた亀治郎丈は、ご本人の意思は別として、
暫く一門とは離れて活動。
お父上・段四郎丈のご心配には及ばないほど多方面で活躍し、
歌舞伎役者としての修練を重ねられました。
先代の猿之助の実子で、俳優の香川照之氏は、
ご両親(父・三代目猿之助、母・浜木綿子)の離婚後、
父とは事実上絶縁状態となり、
母子家庭に育って、名門大学へ進学、
その後、万人が認むる俳優としてその地位を築き、
確固たるものにしました。
一方。
藤間紫という一流の舞踊家がおられて、
日本舞踊の一大流派の御宗家・藤間勘十郎(六代目)の妻であった紫先生は、
のちに三代目猿之助丈と恋仲となって(しまって)、
メディアでは世紀のW不倫などと騒がれたりしましたが、
お互いにしかわからない運命の糸を信じ、長く寄り添われました。
晩年、お二人の関係にケジメを付けられ、
ご結婚。そのニュースを見た私は、
何となく、お二方の何かが報われたような、
少しホッとしたような気がしたのを記憶してます。
しかし、本当の不幸はここからだったのかもしれません。
御結婚後間もなく、三代目・猿之助が脳梗塞に倒れます。
程度の分からなかったファンは、
澤冩屋の間もない復活を期待しましたが、
後遺症は大きく、役者としての再起は難しいとされ、
一門、関係者、多くのファンが肩を落としました。
ここから澤冩屋一門は、事実上の低迷期に入ります。
そして、追い討ちをかけるように、
澤冩屋を陰で支えていた藤間紫先生が85歳で御逝去。
歌舞伎の象徴、歌舞伎座も取り壊しとなり、
連鎖するように歌舞伎界から京屋(雀右衛門)、
成駒屋(芝翫)、天王寺屋(富十郎)の重鎮が天国へ旅立たれ、
一時代の終わりを告げます。
「澤冩屋も、もう駄目か…。」
そんな声も聞かれました。
がしかし。
歌舞伎の神様は、
希代の天才を産んだ澤冩屋一門を見捨てませんでした。
平成23年暮れ、起死回生の一手が打たれます。
再起不能と目されていた猿之助(猿翁)の復活、
亀治郎を呼び戻しての猿之助襲名、
絶縁状態の実子・香川照之(中車)を歌舞伎役者としてデビューさせ、
そしてさらに照之の息子・政明の團子襲名による歌舞伎デビュー。
四者揃っての襲名披露。
どこの世界を覗いてみても、
こんなに目出度いことは、なかなかあるもんじゃありません。
誤解を恐れずに私の持論を展開すれば
「さすがインテリ軍団、頭がいい。」
といったところです。
一つ、今回の日記の末尾に、触れておきたいことがあります。
それは、市川右近丈を筆頭として、
一人前のお弟子が揃う澤冩屋は、
いわゆる低迷期のその間澤冩屋の威信を守り、
息を繋ぎ止めたことに、千金の価値があったということ。
業界きっての一門のチームワークに、
私は心から敬意を払い、感謝を申し上げたく存じます。
これはまさに、歌舞伎の神様が仕立てた軌跡。
平成の『奇跡』であります。
題して『澤冩屋の奇跡』。
この御目出度い節目に、当方日記に刻印として残しておきます。
おめでとう!
おめでとう!
おめでとう!澤冩屋!!
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2012/6/13 メルマガnoichi一周年です
まず始めに、一枚だけ写真をアップしましたので、
メインページのPHOTOのコーナーから入って、ご覧になってみて下さい。
この一ヶ月の内に、九州→北海道→東海→北陸→近畿の順に移動し、
各地で沢山の方に大変お世話になりました。
まず、この場を使って心から御礼申し上げたく存じます。
ありがとうございました。
この頃の私は、演奏会と遠征と会議の三本柱が代わる代わるに立て続いて、
体はともかくも、精神的にどれほど持ちこたえられるだろうか…
と案じておりましたが、楽観的な性格のお陰で、心配無用でした。(笑)
でも、落ち着きのないこういう時にこそ、
慎重かつ丁寧に物事を進めていかねばならないと、
又、気持ちを新たにするところです。
そういえば、昨年始めた『メルマガnoichi』ですが、
お陰様で今月で一周年を迎えようとしています。
沢山の方々にお申し込みを頂いて、本当に有難いことです。
月に一度の配信というものは本当にあっという間ですが、
編集部に支えられて、コツコツと制作しております。
そのメルマガ、今月号は、一周年を記念して特集号となります。
対談
『中島靖子×奥田雅楽之一』
~祖母から孫へ伝えたいこと~
をお届けしたいと思います。
しつこい様ですが、どなた様でも無料でご覧頂けますので、ご遠慮なく、
まで、気楽にポチっとメールを送って下さい。
メルマガnoichiは、奥田雅楽之一が、
邦楽を様々な角度からアプローチするメールマガジンです。
一人でも多くの方にご覧頂き、
毎回の配信を楽んで頂けるよう心を込めて制作しています。
これからも工夫を重ね、おこがましい様ですが、
邦楽の発展に一役買えることを目標に、
一生懸命努力していきたいと思っております。
ご興味がございましたら、是非、ご覧になってみて下さい。
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2012/5/25 公益財団法人の認可
正派邦楽会が、公益法人になりました。
正確には、公益財団法人正派邦楽会という名称に変わります。
つまりどういうことかと言うと、2008年に法律が変わって、
法人と名のつくものは全て公益法人か
一般法人の二つに分類されることになり、
税金を優遇をされる前者を目指して参りましたここ数年でしたが、
お陰様で、公益法人の認可が下りました。
これって、一見、法律が厳しくなったように思いがちですが、
実は、そういうことでもないんです。
国が法人団体を作りやすい法律に変えた為に、
作りやすい方を一般法人、
法人団体として実績のある方に公益法人という高いハードルを設けた為に、
まあ、っていうことは我々の団体は厳しくなったのかもしれませんが、
一般的には、法人を作りやすくなったということが発端らしいです。
しかし、もうこういう時代になってくると、
やはりどこから見ても健全な団体でないと
社会に通用しなくなってきているので、
今回の国の改革は、法人団体を大掃除する意味でも
効果が大きかったのではないかと思っています。
それは、我が団体もしかり。
これからは、今まで以上に厳しい監視の下で、厳しい運営を迫られます。
今までと何ら変わらない意識、
体質ではもはや許されない時代になってますので、
各自が自覚を持って行動してもらわないと困ります。
特に、正派の中枢で働いている人達には、
多くの会員を導いてゆく義務があるので、
今まで以上の責任を果たしてもらうことになります。
経営、演奏会、体質、徹底的に正していかねばなりません。
なにぶん、役員の中でも群を抜いて年齢が若い私なので、
ある意味での孤軍奮闘は必至ですが、
ここ数年で劇的に変わってゆく正派の様を、
会員の皆様に見守って頂ければ幸いです。
来週水曜日は、毎年恒例のファミリーコンサートです。
一人でも多くの方にご来場頂きたいと思っておりますので、
ご都合がつきましたらお出かけ頂き、忌憚のないご意見を下さい。
とは言っても、私以外の親族には言い難いでしょうから、
私だけにヒッソリお知らせ下されば幸いです。(笑)
よろしくお願い申し上げます。
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2012/4/27 正派音楽院の存続
予めのお断りですが、今回はやや批判的な内容です。
でも内心は冷静ですので、その点お汲み取り頂ければ幸いです。
以下、ご笑覧くださいませ。
私ども正派邦楽会は、
一派で小さな寺子屋みたいなものを運営しています。
その名も『正派音楽院』(以下、音楽院と記します)。
音楽院は昭和34年創立なので、今年で開校53年を迎えます。
今までに二百人以上の生徒が卒業し、
世に羽ばたいていった確固たる実績があります。
音楽院卒業生は演奏のみならず、礼儀や作法を心得ているので、
よくお嫁さん養成所なんていう表現も耳に致します。(←これは半分冗談)
さて、私は現在、仕事上では音楽院と直接関わっておりませんが、
立場上は当然ながら見て見ぬ振りはできないところで、
音楽院の行く末を強く案じています。
昨今の経済不況、少子化の問題に加え、
若い世代の芸事離れが深刻を極める古典芸能の世界では、
どこを覗いてみても若年層が少ない現状です。
それは音楽院においてこそ顕著で、
ここ十数年来生徒の数が少なく、
おまけにその少ない生徒が
途中で辞めたり辞めなかったりの内紛もしばしばで、
一生懸命な学生をよそに、
運営する側はあれよあれよで
月日ばかりが経過しているようにも見受けます。
生徒の数が少ない理由に、
『地方の親先生が音楽院に生徒を送り出して下さらないから』
という意見をよく聞きますが、
私は、それは少し違うと思います。
理由はもっとシンプルなのです。
『邦楽に魅力を感じない』
『続けても、仕事にならない』
この場合、特に後者は親御さんが一番案ずるところなので、
これまた非常に難しい課題になることは承知するところです。
さて、批判ばかりしていても仕方ないので、
打開策を考えなくてはいけません。
まず、今までのやり方がもう今の時代に合わないということを、
我々は謙虚に受け止めなくてはなりません。
そして今すぐやるべきことは、恐れずに『変えること』です。
それは正派邦楽会全体にも言えることですが『変えること』なくして、
この世界に明るい未来はありません。
変えるというと抵抗があるのもこの世界ですが、
決して伝統を放棄するのでなく、むしろ温故知新の精神をもって、
今の時代に挑んでいく為の環境作りです。
では次に「じゃあ誰がいつやるの?」っていう段階になるのですが、
提案しても大抵がここで急ブレーキになってしまうのが常ですが、
ここは一つ、他ならぬ私が、
今、積極的に変えていこうと思うところでございます。
差し当たり、まず、当方の発案で
音楽院の中に特別授業というものを設けることに致しました。
そのうち正式に発表致しますが、
『英語で学ぶ箏の奏法(仮称)』という授業です。
ニューヨーカーの先生を招聘して、
正派がインターナショナルになる為の足掛かりを
ここから作っていくことも見据えますが、
六月から試運転的にスタートして、
今年いっぱい学生達と一緒に練り上げながら、
少しずつ理想の形に整えていきたいと思っています。
私も時間を作って学生に混じり、
授業の経緯を見守ってゆこうと思っています。
何か新しいことをする上で、
反対意見や価値観の相違は付き物ですが、
これから邦楽を志さんとする多くの若者の為に、
ついて来てくれる同志の為に、
今こそ私は先陣を切って突き進む所存です。
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2012/3/22 親孝行を思ふ
世間の皆さんが思うより、
私はごく普通の家庭に育ったという認識があります。
予め祖父母の住まいとは別でしたし、
ウチは5人の核家族と黒猫2匹で、
家庭環境として特別ということはなかったです。
幼少の頃は、独身時代に父が住んでいた小平市の一軒家に
両親と姉の4人で生活していて、
私が小学校に入学する前に国分寺へ引っ越し、
やがて妹が生まれて5人になり、
結局私は小中と国分寺の公立学校に通って、
平凡な、でも楽しい学生生活を送りました。
ウチの両親は、特に母は、
私たちが子供の頃は俗に言うスパルタ教育でしたが、
根本的には『自由主義』で、
好きなことを好きなようにやらせてくれました。
そのお陰で、雁字搦め(ガンジガラメ)にならず、
このような奔放な人間に仕立て上がってしまいました。(笑)
しかし、自由主義の恐ろしいところは、
結局、全てを自分で考えてゆかねばならないところ。
勉強する種類、表現する手段、
お金を稼ぐこと、生活をしていく方法…
後で気付いたのは、
自由にさせて貰っている分、
自分が、ある日ある時心を鬼にして頑張らないと、
ただの落ちこぼれになるという、
それはそれは恐ろしい教育方針なのだということ。
でも、まあ、私は到底、
人様に誇れるほどの人物になり得ませんが、
今こうして自分が音楽家としてスタートを切れたことだけでも、
両親の教育方針に感謝しなければならないと、
常々に思っています。
お父さんお母さん、感謝してます。
そこで思う、親孝行とは何か。
そりゃ、綺麗事を並べれば幾つでも挙がりますが、
私は、私個人に対してこう思います。
『世間一般から見て、恥ずかしくない人物であること』
です。
そのために、私は『自分を鏡で映す究極の客観性』と、
『どんな時も自分を正せる謙虚な心』を持ち続けることが、
親の恩に報いる為に欠かしてはならない、
キーだと思っています。
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2012/2/28 古典芸能のスーパースター
今年は国立劇場が会場45周年ということで、
東京では様々な演目が観賞できます。
私のお目当ては能と文楽。チケットを頂いたり、
自らも購入したり、折り合いがつく時はなるべく出掛けて
我が国最高の無形文化財二つを観賞しています。
幽玄な能の世界と、情愛の文楽。
並べてみるとそれぞれ相反する世界観を持っていますが、
『格』という点では
他の古典芸能の追随を許さない抜きん出たものがあり、
日本人の古典芸能離れが囁かれる昨今にあって、
その威信を保っていることは容易でないと思いますが、
だからこそ、値打ちがあります。
これは、ちゃんとお金を払って
観に行くものだなと感じています。
機会があったら、この折に一人でも多くの方に
ご覧頂きたいと思っています。
そういえば先日、祖母から、
こういう質問が飛んできました。
「世界的に有名な伝統芸能出身の人物って、
宮城道雄以外に誰がいるかしら。」
さて、私の経験と少々の私情を含めて書き続けますが、
世界で認められた日本人音楽家として、
まず筆頭に挙がるのは『武満徹』であります。
氏は世界的に評価されている作曲家であるのは勿論、
後に世界中で起こった尺八ブームの火付け役でもあり、
世界中のクラッシック界で
Takemitsuの名を知らない人は、恐らくいません。
しかし、武満徹自身も言っていましたが、
彼はあくまでクラッシック音楽の世界の人。
少なくとも、古典芸能の出身ではありませんので、
祖母の質問の答えとしては相応しくありません。
私は、しばらく考えて、一人の大人物を挙げました。
「これを言ったらば始まらないかもしれませんが、
例えば、世阿弥はどうですか?」
「あ!そうね!世阿弥がいたわね!」
先日、国立能楽堂で
世阿弥のことについて書かれた物を目にしました。
それまで続いてきた能楽の在り方に限界を感じた世阿弥。
芸能、劇作家、精神論、プロデュース、
どこを取っても超一流であった世阿弥の出現により、
能は息を吹き返して、今日にも通じる芸能を完成させました。
世阿弥は世紀の大天才であり、今でいうスーパースター。
世阿弥が残した貴重な書物
『風姿花伝(花伝書)』の中に記されている有名な言葉
~秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず。~
これこそまさに、
私達古典芸能を志す者の向かうべき境地であり、
心掛ける精神性なのです。
近い将来、どこの世界に、
どのようなスーパースターが
ポコッと出現するか判りませんが、
日本人に生まれた以上、
まずは日本のスーパースターが残した遺産を知っておくことが、
優先順位の筆頭であると私は思います。
又、そういう国へ変わってゆく為には
何が必要かをよく考え、
少しでも貢献できるよう取り組んでゆく姿勢が、
今まさに求められているのです。
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2012/1/31 ブラジルからの贈り物
まずはじめに、大変遅ればせながら、
分かる範囲で本年のスケジュールを更新致しました。
ご覧頂ければ幸いでございます。
今月16日に新年早々の海外旅行から戻って、
帰国後しばらくは時差ぼけに手こずりもしましたが、
その分早朝から物を書いたり読んだりして、
静かに有意義なリハビリ生活を送りました。
尤も、今はもう通常の感覚に戻っておりますが…
ところで、帰国して直ぐ、待ち構えていたように一本の電話。
それは『正派ブラジル筝の会』を担当する先生からのお電話で
「もしもし、お帰りなさい。帰国早々にごめんなさい。
今、ブラジルから短期留学生が来ています。
彼女は筝を勉強しに来ました。
どうぞ色々と力になってあげてください。」
その彼女というのは、
僕が二年半前ブラジルへ行った際に出会った20代の子で、
名を青木デニーゼといいます。
彼女はサンパウロの国立大学を出て、
それから音楽の勉強を専門にしている、
非常に賢く美しい女子大生です。
お電話でその旨を了解した私は、
さっそく彼女の滞在プランを練りました。
数日後、正派の会館ロビーで彼女と再会し、
相変わらずのお互いを確認して、
家元、副家元、ブラジル担当の先生方お二人、
それにデニーゼと私の6人で話し合い、
私が練った滞在プランで大方宜しいということで、
話がまとまりました。
…という訳で、デニーゼは滞在する一ヶ月強、
少々厳しい課題に取り組んでいます。
帰国直前2月19日には、
一応の勉強の成果を発表する場を設けて、
家元はじめ先生方に聴いて頂き、
御助言を頂いて、
彼女にとって意義深い経験が残ってもらえれば、
友人の私としても誇らしく、それ以上のことはないです。
最近、ブラジルへ行った時のことをよく思い出しています。
みんな、元気にしていますか。
デニーゼは今、一生懸命頑張っています。
彼女の努力と挑戦は、きっと、
みんなにとっても大きな大きな一歩になると思います。
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2012/1/12 新年、明けましておめでとうございます。
私は今、一年半ぶりに訪れたドイツから、
平成24年新年最初のダイアリーを
更新させて頂く次第でございます。
旧年中は、例年に増して多くの方のご厄介になった、
誠に有難い一年を過ごさせて頂きました。
東京をはじめとする当方の音楽活動にお力添えを賜りましたこと、
御指導御鞭撻を賜りましたこと、
ここに再度御礼を申し上げたい所存でございます。
本当に有難う存じました。
本年は、ここ数年来自らが考えていたことを結実させること、
形としてお示しすることを第一の目標に定め、
今までの何倍も頑張っていきたいと思っています。
正派邦楽会、並びに当方奥田雅楽之一を、
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
ところで、私が今、ここドイツで何をしているかと言うと、
何の自慢にもなりませんが、ただの休暇です。
私はどういう訳か、
海外で活動することに重きを置かない
(余りそう見られていないかもしれませんが)主義なので、
海外に出る時は大方がプライベートの旅ないし、
友人知人との再会が主たる目的です。
反面、仕事上での自らの活動する場、
人のお役に立てる場は、
あくまでも日本にあると思っています。
そうでなければいけない、とも思っています。
(無論例外もありますが…)。
そうなってしまう理由は
私が日本国の伝統芸能を志す者であるからに他ならない訳で、
例えばもし私が画家であったり、
建築家であったり、
或いは他の国の音楽を専門にする者であったのなら、
今とは全く違う生き方をしていたかもしれません。
なにぶん、日頃、多くの人との出会いの中で生活し、
多くの諸先生、諸先輩の目で
育てて頂いている私にとりまして、
思い切って作る一人きりの時間、
一人きりの空気の中にしばし身を置くことは、
今の自分にとってはプラスだと思っています。
以前と違って、段々と、
時間を確保することの難しさを痛感する昨今でもありますが、
一年半ぶりに訪れたヨーロッパの歴史に、
忘れていた大切な何かを思い出させてもらっている気がして、
まあ、そういう風に思って
無理矢理ここに来た理由を見つけて、楽しく過ごしています。
何だか惨めな内容になってきましたが、
こんな私ではございますが、
本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。
16日に帰国致します。
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