奥田雅楽之一の日記です

2008/12/24 メリークリスマス!

ドイツで、クリスマスのマーケットに行きました。
ここドレスデンのクリスマス・マーケットは
西暦1434年から続くもので、
噂によるとドイツ最古だそうです。
ま、最古であろうとなかろうと、
私にとっては初体験の本場クリスマスなので、
こういう場所は縁のある内にこの目に
しっかり焼き付けておこうというのが、私の思惑です。
所狭しと軒を連ねる屋台は、
日本でいう縁日の屋台とは赴きが全然違って、
それはまるで木で作られた小人の家、
一つ一つがちゃんと三角の屋根で、
随分手の込んだ様子なのに驚きました。
素敵でした。
屋台には様々な種類があって、
あたためたワインの振る舞う店、
肉やソーセージを直火で焼いている店、
シュトーレンというクリスマスケーキやクッキーを売っている店、
クリスマスの飾りを扱う店、
帽子や靴下を並べる店等々、
その種類は挙げればきりのない数でした。
私は、目から鱗が落ちた後、
人と店の多さに少々目が酔いました。
屋台でミスリルという木を買いました。
幸せの木と信じられている木で、
それを糸で編んで、丸くして部屋に飾ります。
手頃な糸が無かったので、
三味線の糸で編んでみたのですが、
こうやって使ってみると三味線の糸というものは大変に丈夫で、
結び易くて、便利です。
そのミスリルの写真と、
ウィーンのシュテファン寺院内での写真を載せます。
ちょっとご覧になってみて下さい。
そういう訳で今年のクリスマスは友達と一緒に、
ミスリルの幸福に照らされながら七面鳥を焼いて、
シャンパンを開けて、
感謝の日を祝おうと思っております。
日本を離れていると、
家族や、先生方に対する感謝の気持ちは尚一層に強まるもので、
この余りある気持ちをどうしたらよいものかと時々気を揉みます。
でも私は、感謝、愛の二つは
人間の最も優れている感情だと思っていて、
それがどんなに大きなものであっても自分にはね返ってきたり、
重く肩にのしかかってきたりしない、
唯二つの優れた感情だと思っております。
ドイツ語で、メリー・クリスマスを
フローエ・ヴァイナハテン(FroheWeihnachten)
と言います。

フローエ・ヴァイナハテン!!


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2008/12/17 ウィーンから

無事にヨーロッパに着きました。
今私がおりますウィーンは東京に比べるとやや寒いですが、
こちらに発つ2日前に滞在していた北海道と比べますと、
そう違わない気温で、過ごしにくい感じは致しません。
オーストリア・ウィーン。街は、クリスマス一色です。
街角ではもみの木が売られ、道端で演奏する人は賛美歌の節を。
家の窓はそれぞれクリスマス・デコレーションで彩られ、
いつもにも増して街は素敵です。
今回は目一杯時間を作っての12日間、
その内半分をドイツで過ごしますので、ウィーン滞在は5日。
お弟子さん達のお稽古や、友人達との再会、
加えて夜はコンサートの鑑賞、
あっという間に時間が過ぎてゆくのが恐いです。
円高の原因で日本国はおろか、
ただ今世界中が大変な状況に陥っておりますが、
ツアー・コンダクターを しているお弟子曰く、
今年は日本人観光客が多く、仕事が忙しいらしいです。
泣く人あれば、笑う人あり。
そんな私は、笑う人に分類されるのでしょうか。
ちなみに、未だ1ユーロ120円台です。

話を変えます。

ヨーロッパへ発つ前日の13日、
友人の企画するコンサートに出演してきました。
友人とは、名を田辺明(たなべあきら)、
雅号は雅震翠(がしんすい)と申す友人なのですが、
私と同年代の変な奴で、育ち方も違えば、価値観も違う、
言ってみれば両者は正反対の性格なんですが、
これがどういう訳か相性は良いらしくて、
出会っ てからのここ数年来、公私共に縁が切れず、
二人でこなした仕事はどれも上手く乗り越えてきました。
今回は友情出演という形だったのですが、
私の大まかで雑なやり方と違い、
彼の几帳面さと計画性の高さには、改めて恐れ入りました。
小さな会だったのですが、
お客様にはお喜び頂けたのではなかろうかと思っております。
来年平成21年は、もう少し彼との仕事を増やしていこうかと思います。
折節、皆様にお目に掛ける機会もあるかもしれませんので、
何卒私の良き友人、良き相棒として田辺明君を、
どうぞお見知りおき下さいますよう、
宜しくお願い申し上げます。

思い起こせば、今年は正月早々ウィーンへ来たのでした。
もともと縁のある街ではあったのですが、
今年は尚一層、その縁が色濃くなったような気がします。
私は日本人であり、かつ日本伝統文化を志す者ですから、
他所(よそ)の文化にかぶれてしまうのは厳禁なのですが、
縁というのは、人でも、場所でも、
ひょっとしたら相手 が動物でも、縁は縁なのだと思います。
渋谷駅のハチ公も、ある意味では人と人の縁を越えた強い縁なので、
銅像になるのだと思います。
私はウィーンの街と強い縁があるのかもしれません。

今から10年前、私は一人旅でウィーンへ来ました。
ちょうど10年です。
初めてのヨーロッパ、音楽の都、
自分は作曲家になるのだという情熱を燃やして。
もう二度と邦楽界には戻るまいと思っていたのですが、
まさかの展開が待っていました。
たった10年とはいえど、私にとってのこの10年は、
当時の自分には想像の出来る 筈もない劇的な変化で、
「10年。」
と一口に言うことはちょっと出来ません。


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2008/12/3 師走になりました

平成二十年も早や師走へと駆け上がりました。
多種多様の行事や仕事を終えて、
今ようやく本年の残り少ない日数を指折り数え
年内の行動予定を整理しているところでございます。

一つご報告です。14日から、ヨーロッパへ行くことにしました。

日程上、日本を離れるのが厳しくなっていたので
85パーセントくらい諦めていたのですが、
ある意味で奇跡的に整理がつきました。
師走のこの時期に不在をするのも大変気が引けるものなのですが、
ヨーロッパ探訪は今この時にしか出来ないので、
遠慮なく行かせて頂きます。
27日の朝に日本へ戻って参ります。
生まれて初めて、クリスマスを日本以外で過ごします。
小さい頃、毎年イブの夜に
サンタさんがプレゼントを置いてってくれました。
朝起きるとツリーの下にプレゼントがあって…
言葉にならないくらい嬉しかったもんです。
子供を卒業してサンタさんが来なくなった年のイブは、
寂しさの余り体調を崩しました。
今思い出すとちょっと恥ずかしいような、懐かしい話です。
本場ヨーロッパのクリスマスは一体どんなものなのでしょうか。
私なりの感覚で解してこようと思います。
また写真入りでご報告申し上げます。


年が明けましたら当ページのスケジュールを更新します、
来年は演奏会が目白 押しで油断の出来ない一年になりそうです。
年々忙しくなりますのは気のせいではないと思いますが、
自分の力を必要として下さる方々お一人お一人を、
大切にしていこうと感じております。
今は色々な方にお声を掛けて頂いて
ようやく重たい腰を上げる私ですが、最近はいよいよ、

「雅楽之一さんはリサイタルをなさらないんですか?」


というお言葉を度々頂戴するようになりました。
私は自分の芸術家人生を考えた場合に、
まだ自分の会をする"旬"は来ていないと感じております。
私はあまりコダワリのない人間なので、
どちらかと言えば無難に世を渡っていくタイプなのですが、
こと芸術に対しては一切の妥協ができず、
内心は大変に厳い姿勢があることを否定出来ません。
私がいつの日か「奥田雅楽之一の会」をさせて頂く時が来たら、
お金と人手とを十分に掛けて、
私が本当に納得する世界を作らなければ、
早まって会を持っても私の場合全くの無意味だと感じております。
少しずつ環境を整えて、来たるべき時が来ましたら、
皆々様のお力を頂け ますよう、
末永いご支援をお願い申し上げます。


……という訳で、行ってきまーす。。(嬉)


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2008/11/11 あそび

長野から戻って参りました。
正派の記念式典の為の遠征だったのですが、
内容等は、後日写真と合わせてご報告させて頂きます。

久しぶりに我がHP(ホームページ)に帰って参りました。
HP留守中は島根への遠征があったり、
バイオリニストの阿部君との久しぶりの演奏があったり、
長野へ行ったり、
一度には語り尽くせない内容でございました。
久しぶりのHP、
ホコリの溜まった自分の部屋を掃除するような心持ちでございます。

平成20年節目の年も、
ぼちぼち暮れにさし掛かって参りました。
ここ最近は音楽についてちょっぴり思慮深くなっていて、
作曲、稽古、暗譜を義務に感じて過ごす日々だったかもしれません。
こうなってくると鮮度が命の音楽感も
いよいよ風通しの悪い状態となる気がします。
いわゆる、゛気分転換゛が必要となる訳です。
私も最近はすっかり゛遊ぶ゛方法を忘れて、
気軽転換しろと言われても困るのですが、
ただジッとしていても仕方ないので、まずは外へ出てみようと思いました。

今、六本木にパブロ・ピカソの作品群が来ていて、
ピカソ好きの私はまず、
天才の天才による天然水を汲み取りに出掛けることにしました。
省みれば、ピカソの原画と対面するのは今回が初めてで、
額縁に収まった作品は 、
まるで額を飛び出さんとする天才の
溢れんばかりの活力が満ち満ちている様でした。
新国立美術館に集まった数百点の作品は、
年代ごとにきちんと整理されていたので、
ピカソの時代時代の作品傾向がよくわかりました。
初期と後期ではまるで違うといわれるピカソの作品ですが、
私には終始一貫して、
モデルの筋肉と 、彫刻的な立体の世界への熱を感じます。
その中でも1930年代の作品は円熟味があって、
若い頃の試みや冒険心が削ぎ落とされた、
一つの芸術品でした。
私は感動 しました。


もう一つ、良い゛遊び゛をしました。

野球観戦に行きました。
私が筋金入り巨人ファンと知る知人が、
会社でチケット扱ってるけど、欲しいかと問われて、
是非 下さいと返事しました。
日本シリーズ第2戦の切符を手に入れました。
東京ドームは私が居る市ヶ谷からチャリンコで15分。
意外と近いのにビックリ。
本当に、久しぶりの野球観戦でした。
増してや日本シリーズ、燃えないはずがありません。
試合は一進一退の攻防でしたが、
最後は巨人の4番ラミちゃん(アレックス・ラミレス)が
サヨナラホームラン。
恥ずかしながら、私も気が狂った様に叫びました。
しかし、世の中はうまく運ばないもので、
日本シリーズは第7戦までもつれた結果、
我が巨人軍は惜しくも破れ去って西武ライオンズに栄冠をさらわれました。


遊びには、ゆとりという意味があります。


私はよく、三味線や箏で遊んでいます。
沖縄民謡を弾いたり、
越中おわら節を弾いたり、
義大夫や長唄をマネたり、
ごくたまーにですが、
西洋音楽を弾いたりしてます。
そういう遊びは、あくまで遊びの範囲内に留めておくべきで、
オアソビは決して舞台上で出てはなりませんが、
遊んでみて縮まる楽器との距離感というのは、あります。
そのアソビが時として、舞台で功を奏することも、あると思います。
ピカソの作品にもアソビはあります。
野球も優れた投手や野手、監督にはアソビがあります。
美味しい料理にも、建築にも、
良いものには全てアソビがあると私は思います。
アソビが無くて優れているものがあるとすれば、
信仰の世界か、自然界か。
その二つは、別の世界と思います。


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2008/10/17 履歴書に書けないこと

書類上で何かとお出ましになる職業欄、
職種を記入をする必要がある際に私の場合、
適当な言葉が思い付かないので゛音楽家゛と偉そうに書きますが、
そんな私は義務教育始まって以来現在に至るまで、
音楽学校に通った経験が一度もありません。
そんな私が今こうしていられるのは、
如何に学ぶ環境が恵まれていたかの一 語に尽きます。
家族、師匠の有り難みも痛感する今日この頃でございます。
私が最初に触れた楽器は、やはり箏でした。
それが何歳の頃であったのか正確に記憶しておりませんが、
だいたい4、5歳であったと思います。
お稽古中に頭が痒くなって、箏爪で頭をポリポリしたら、
祖母に「コラ」と注意されたのをうっすら憶えています。
次いで習いに通ったのはピアノでした。
これは小学生になってからであったと思います。
一つ年上の姉が幼少の時分から熱心にピアノを習っていたので、
そこに自分もくっ付いて行きました。
私はつまで経っても五線譜が読めるようにならなかったので、
先生のお手本を見真似て、バイエルやハノンやソナチネを勉強しました。
今思 えば、結構大変でした。
公立の小→中→高と階段を上がって、
作曲家になる夢を実らせる為、
ひとまずの音楽大学への進学を真剣に考えましたが、


「大学に行ったからといって、夢が叶うと思うな」


と父に諭され、それもそうかなと思いました。


結局大学へは進学せず、
分厚い理論書片手に近所の先生の御宅に通うようになって、
作曲の手ほどきを受けました。
同時に、関心の赴くがまま音楽を聴き、
理論書や本を読みふけって、
音楽人として必要最低限の基礎を身に付けました。
今思えば、この時期に勉強したものが
今現在私の音楽生活を支える礎(いしずえ)を築きました。
それから色々な土地へ旅をしたり、
少しずつ曲を発表したりしながら、
音楽の中にある光のようなものを純粋に追い求めました。

それから数年が経って、
伝統芸能の世界に再び入門することとなり、
特別大きな覚悟を持って再び芸道の上へ降り立った訳ではなかったのですが、
師匠に毎日厳しくお稽古をつけて頂くうちに、


「これは、片手間でどうにか成る世界ではないぞ。」


と気が付いて、この心境の変化を機に、
自分が西洋音楽の作曲家になるという夢は捨てました。
でも、この判断は間違っていなかったと思います。


ここから後のいわゆる修業時代の経過は以前から日記でも書いている通りですし、
私が表に出てからの話なので御周知の方も多いかと存じます。
今でも、ヨーロッパを旅している時、
あるいは西洋音楽を聴いている時に夢を追い掛けていた頃の自分を思い出す時があります。
夢潰えたことに悔いや未練は全然ないのですが、
当時の思い出は、
一粒の真珠をつまみ上げるように、
綺麗で、透き通っていて、
いつまで経っても輝きを失っていないものですから、
少し、ほんの少し切なくなることはございます。


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2008/10/2 手相占い

平成20年明けて間もない今年一月の話。
新年明けて間もなく、気まぐれB型人間の私は心機一転、
部屋の模様替えをしたくなりまして、
思い立ったが吉日、気の向くままに自室の家具を移動してみました。
ところが、模様替えをした翌日の朝に
愛車を防衛庁のガードレールにぶつけました。
又時期同じくして体調を崩し、少し寝込 みました。
仕事でも上手く運ばないことがあっりしたものですから、
さては部屋の模様替えを誤って、運気を逃したものかと考え始めました。

気持ちが冴えない日が続いたある日、
東京は中野区のひょんな裏通りで、手相を占う女性がぽつねんと、
寒そうに肩を竦めて座っていました。
私がその前を通り過ぎようとすると、

「もしもし。お兄さん。」

占い師が私を呼び止めました。
私は耳を貸さないで、10メートルほど先まで過ごしたのですが、
その女性の 「もしもし 」が妙に耳に残って、思い切って引き返しました。

「今年は何だか嫌な感じがするので、占って下さい。」

と手を差し出すと、

「戻って来て下さって、ありがとう。」

と占い師。占い師は私の生年月日を尋ねるので、
54年6月3日と応えると間髪入れずに

「未(ひつじ)ね!」

と言いました。

「貴方、何してる人かしらね。
 不思議な手相だわ。感情線が凄いわね。
 子供の頃、苦労したの?
 未(ひつじ)は誰とでも合うのよ、
 ただ未は大人しいから、いつも周りに押されっぱなしなのよ。。
 お金が出易くなっているけど、でも心配いらないわ、大丈夫よ。。
 健康面では心臓に気をつけてね。
 あなたは心臓がちょっと心配ね。
 あと今年の運勢ね…悪くないわよ。 
 きっと良い一年になるわ。
 あなたは沢山の人に守られている人ね。
 あなたはきっと、二足の草鞋(わらじ)を履くことになるわ。
 一体何している人なの?まあいいわ。頑張ってね!」

気が付けば、もう10月。一年を振り返るにはまだ少し早いのですが、
思い返せば案外良い一年だったといえます。
今年は年始にヨーロッパに行きました。
2月は演奏会が大変多くございました。
3月には父方の祖母が他界、月末には二週間近く遠征で家を空けました。
4月は慣れ親しんだ名古屋で、祖父と二人で演奏会が叶いまし た。
5月は毎年恒例となった我が一族のコンサートがあり、
祖父母共に相変わらずの元気に参加、私もお二人と共演させて頂きました。
6月は、29歳の誕生日を一族、恩師の先生方に祝ってもらいました。
7月には正派邦楽会95周年を祝す演奏会が催され、
8月は再びヨーロッパで過ごし、9月は怒涛の演奏会シーズンでした。
本10月も演奏会が続き、
11月には長野善光寺の正派発祥の地を刻んだ石碑県立30周年の記念式典、
12月は国内外で遠征を予定しております。 
占い師に診てもらったことなど今の今まですっかり忘れていたのですが、
ここにきて突然思い出しました。
でも、このようにして振り返ってみると、
実に良い一年を過ごしている様子が窺えます。
年内の目標が一つあります。
私の好きな伊勢か、奈良かのどちかにご挨拶に参りたいと願っております。
お伊勢参りと、奈良詣は、
奥田雅楽之一が天上の人々に出来る折目節目の政(まつりごと)のようなもので、
神なのか仏なのかわかりませんが、
そういう力でなければ洗い流せない人間の生活臭って、ある気がします。


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2008/9/18 春夏を 越えて輝く 今宵長月

帰国の後、あれよあれよと過ごしている内に、
ふと気が付けば九月は半ばに差し掛かかって参りました。
未だ暑さ残ります東京、
変わりやすい秋の空はやはり気まぐれでございます。
でも、日本は良いですね。
私は日本の秋が好きですから、
この季節に日本へ戻って 参りますのは、
とりわけ感慨深いものがございます。

…帰国の余韻に浸るのはこのくらいにして。

本九月は、毎週末地方へ出掛けます。
広島(既に終了)、松本、札幌という順序です。
他の予定は主に、自分の勉強と、御弟子さん達のお稽古です。
帰国して後(のち)、つくづく気が付かさせられますのは、
年々、私を必要として頂ける場が
少しずつ増えておりますことでございます。
未だ芸道、道半の私には身に余ることで、
感謝で心が一杯になります。

忙しくなるにつれて、
何となく時間に追われる感じがありますのは致し方ないところです。
スケジュールが過密になっていく上で
鍵となりますのが限られた時間の使い方と、
通り一遍でゆかない仕事の整理だと思います。
例えばまず、演奏関連以外に私は文章を書く用事が案外多くございます。
それは大きく分けて二つ、
公にする文章と、
お世話になった方々への手紙のいずれかに当たります。
公にする文章は、移動中の電車もしくは飛行機の中で書きます。
特に地方遠征の場合はたいてい1時間〜4時間の移動時間があるので、
この時間を上手に使うと要領がよいです。
手紙は夜、布団に入る前にパジャマ姿で音楽を聴きながら書き、
翌朝一番でポストに投函します。
それが一番、落ち着いて書ける方法です。
それと、沢山入るのが打ち合わせ(相談事を含む)で、
その消化方法は重要です。
私のいる世界は何かと難しい問題が多くございまして、
事あるごとに打ち合わせねばならない状況になり、
うっかりしていると打ち合わせだらけになるところですが、
私はそれらを気持ちよく、
要領よく対峙するよい手段はないものかと考えて、
結果、衣食住の食と打ち合わせを兼ねるのが得策という結論に至りました。
お昼はバタバタするので、
仕事が終わった夜に打ち合わせを兼ねて、
ゆっくりと食事をいたします。

ここ数カ月、この方法が功を奏しておりまして、
事が円滑に運んでおります。
「一日に与えられた時間」− 「睡眠時間」=「活動時間」
は皆同じですが、その時間の使い方には工夫が必要と思います。
特に私がいる世界は年功序列、
若輩の私は時間厳守、
言い訳無用、
努力は人一倍していて当たり前、
の立場なので、
自己管理能力がものをいう今日この頃といえます。


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2008/8/29 ブラームス・交響曲第4番!

ドイツでコンサートのチケットが取れて、
一昨日の夜、
この夏最初にして最後となったオペラ座来訪を致しました。
一応、オペラ座内で撮った写真を掲載させて頂きます。
コンサートの目玉はブラームスの交響曲第4番、
私にとって思い入れの強い曲なので、
強い期待を胸にオペラ座に向かいました。
楽団の演奏は、それはそれは素晴らしいもので、
弦楽器や木管楽器の柔らかさと、
金管楽器の力強さがブラームスの音符一つ一つに彩りを添えている様で、
オーケストラという演奏形態の完成度の高さに改めて絶句しました。
敢えて言うなれば、「凄い!」の一言に尽きます。
その日は夜遅くにドイツ料理を食べて、
胸いっぱいお腹いっぱいに満足しました。
幸せでした。
ドレスデンで過ごした日々を振り返りますと、
全く作曲に明け暮れる日一日で、
特別な何かを発見したであるとか、
探しに行くであるとかいうことは出来ませんでしたが、
集中力を解くために散歩をすると、
そういう際に見る景色や、川のせせらぐ音や、
香しい木々や花々などが体内に良い空気を運んでくれて、
良い循環をもって作曲に取り組むことが出来ました。
今回作曲した曲の経緯や今後のことなど、
現時点では未だ詳細を発表することが出来ませんが、
とても責任の重い曲を仰せつかった次第です。
おそらくは来年、東京都内劇場にて初演、
清元節というジャンルで発表する
歌舞伎・舞踊曲になろうかと存じます。
決まり次第、ご案内させて頂きます。

私は、明日帰国の途につきます。
9月は、週末の遠征が4つ、
秋に備えて打ち合わせなども多くございますが、
帰国後はまずもって、
何より私を必要としてくれている愛弟子さん達のお稽古と、
自分が弟子として学ぶお稽古に備えて
猛勉強をしなければなりません。
幸い日本に着くのが葉月末尾の31日の朝ですので、
時差ボケであろうが天然ボケであろうが、
その日からスイッチを「日本生活」に入れ直して臨もうと思います。
帰国後も、どうか皆様、
奥田雅楽之一と仲良くしてあげてください。


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2008/8/21 プラハ探訪

チェコのプラハに行って来ました。
終日雨でした。2、3枚の写真をPHTOに掲載しておきます。
ドイツの東に位置するドレスデンからチェコのプラハまでは、
電車に乗ってしまえば二時間という近さ。
島国育ちの私にとって、
陸路で別の国に入って行く感覚は何度味わっても新鮮です。
エルベ川沿いを上流に向かって走る車窓の景色は筆舌に絶えない美しさで、
ただひたすら目を奪われてしまいました。
居眠りをする暇もなく、あっという間にプラハに着きました。
プラハに着くと、駅はおびただしい数の観光客。
そうか、この時期は丁度夏休み(日本でいうところのお盆休み)
に当たるんだな、ヨーロッパも旅行シーズンだ。
という訳で、あっちこっちから、
聞き慣れない言葉が耳に入ってきます。
街の中心に着きますと、
街の象徴である巨大な仕掛け時計(旧市庁舎の天文時計)があります。
毎時00分に動き出すそうなので、
私も11時10分前くらいから待ち伏せをして、
その絡繰りをしかと観賞させてもらいました。
姿を現す人形達の表情が独特で、
何と表現して良いものか適当な言葉が見つかりませんが、
貧しさの中にある一つの強さみたいなものを感じました。
午後は教会や美術館を観賞する時間に当てました。
聖ヴィート大聖堂に入る際は
いちいち列に並ばなければならないほど観光客で賑わっていましたが、
ちゃんと並んで入った甲斐がありました。
聖堂内のステンド・グラスは
自然の光に照らされる青、赤、黄の彩りが息を呑む美しさでした。
美術館も何気なしに立ち寄ったところだったのですが、
チェコ人作家の作品を中心に収集している美術館で、
これを幸いにとゆっくり観て歩きました。
イエス・キリストの彫刻一つ採っても、
今まで観て来たイエス様とは雰囲気が違って、
どこか重たいような、でも素朴のような、
安心するような…やはりそこにも、その国独自の強さと、
気高さのようなものがひしひしと伝わってきました。
プラハは度重なる戦渦に巻き込まれた場所、
大変苦しい歴史を背負っているのだと思わせられました。
それでも尚、崩れずに独自の文化を守り育んできた、
他ならぬその「強さ」に私は一番感動しました。
又の機会に、訪れようと思う場所が一つ増えました。

ヨーロッパ生活も残り一週間余りとなりました。
作曲も順調に進みましたので、
どうやら胸を張って日本へ戻ることが出来そうです。


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2008/8/14 旅の途中です

ハンガリーに行きました。
撮った写真はほんの数枚ですが、PHOTOに載せておきます。
ウィーンからブタペストまでは電車で約3時間。
車窓から眺め見る景色は楽しみの一つでしたが、
出発が早朝ということもあって、車中で少々居眠りをしてしまいました。

ブタペスト、実に良い街でした。
街の中心を流れるドナウ川の存在は街の景観を保っておりました。
ドナウに架かるクサリ橋を渡りケーブルカーに乗り、
街の心臓である王宮や主要の教会などの建物を観覧することが出来ました。
そこでハンガリーの伝統料理、グラーシュも食べ、想像以上の美味でした。


ウィーンでは沢山の友人に会いました。
もちろん、お筝を勉強したいというお弟子さん達にも会って、
皆の勉強したいというその意欲には、
ヨーロッパに来て怠けがちの我が身を省みさせられるところもあるせいか、
自分も頑張らねばと奮い立ちました。
私は今日まで色々な都市に行って参りましたが、
やはり、この街こそは 「音楽の都」。特別に好きな場所です。


そんな私は今、ドイツにいます。
東街のドレスデンです。
今週のどこかでチェコに発とうと思っていますが、
もう少しここで作曲の仕事を進めてからにしようかと思っています。
日本の曲を西洋で作るというのはお門な気がしますが、
最近の日本生活では作曲をする時間の確保が難しくなっているので、
今こそ絶好の機会だと 捉えています。
この街にはゼンパー歌劇場という歴史的なオペラ座があり、
シーズンであれば私の大好きなワグナーの楽劇を鑑賞することも叶うのですが、
八月はオペラ座も夏休みらしいので、ちょっと残念ですが、
そんな自分も夏休み中なので、文句を言う権利もありません。



今回は、本当に良いタイミングで
自分探しの旅に出ることが出来たと思っています。

色々な人の優しさに接し、世の為人の為に生きることの大切さを、
深く感じているところでございます。


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2008/8/4 西洋の夏

ヨーロッパはウィーンより、ご挨拶申し上げます。
31日に日本を発ちまして、同日夕刻にフランクフルトへ着き、
その後飛行機の遅れがあったものの
夜中にさしかかる頃にはウィーンへ着きました。
その日は元気ばかりが取り得の私もさすがに疲れがあったのか、
自分でも記憶にないくらい深い眠りにつきました。
翌朝、案外早く目が覚めましたので、寝ぼけ顔だけ洗って、
近くのパン屋にとぼとぼと朝食の調達に出ました。
ウィーンの石畳と青空の、異国の天地に挟まれて、
「ああ、ウィーンに来たな。」
と遅ればせながら実感に至りました。
毎回の決まりごとなのですが、ここに来ますとまず、
街の象徴であるシュテファン寺院の参拝と、
最初にウィーンに来るキッカケを作ってくれた
ベートーベンにご挨拶(お墓参り)をすることにしております。
この度も例に漏れず、双方のご挨拶をさせて頂きました。
後者の、ベートーベンのお墓参りの様子は、
同行してくれた現地 の方が写真に撮って下さいましたので、
PHOTOの欄に載せておきます。
明日からハンガリーのブタペストに行って参ります。
初めて行く場所なのですが、
未だ足を踏み入れぬ地に出向かんとする前の日は、
特別に心躍るというのか、胸高鳴るというのか、
何と表現すれば良のでしょうか・・・
ま、要するにワクワクするものです。(笑)
今回は作曲の仕事を抱えております為に
三味線こそ持参致しましたものの、
基本的に演奏一切無しの、
自分探しの旅と決め込んで参りましたので、
五感を研ぎ澄ませて、
ハンガリーの歴史を体に刻み込んでこようと思っております。
来週辺り、当ウェブ・サイトで
ハンガリーでの様子をPHOTOに載せることが出来ると思います。
という具合に、
私は元気で無事にやっております。


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2008/7/25 私の心の中にある引き出し

連日、まさに猛暑と呼ぶにふさわしい真夏の日照りが続いてございます。
しかしながら、いくらなんでも最近は本当に暑いですね。
暑いのが大の苦手な私にとりましては、
ちょっと堪(こた)えるところでございます。


ここ最近、お世話になった方々の訃報が立て続けに飛び込んで参ります。
季候に関係するのかしないのか、
人の命が絶える時期というのは、たいてい重なるように思います。
そいういうエネルギーの流れなのか、
はたまたそれが世の定めなのか、それともただの偶然なのか・・・。
いずれにせよ、私の身の周りが今そういう時 期にあたるように思います。

私は神社仏閣に特別傾倒する方でもないのですが、
目には見えずとも存在する「因果」というのを強く信じております。
善し悪しがあろうかと存じますが、
無慈悲に言ってしまえば、私は人と出会っていく度に、
一人一人の「性格」や「志」を私の心の中にある
『引き出し』に細かく分類してゆきます。
それは意識的というよりは、むしろ、無意識に近い行為であるようなので、
分類するというよりは、分類されると言うのが正しいのでしょうか。

分類していく内に、例えば

・『AさんとCさんの「志」と「志」は、きっとプラスの関係になるな』

と感じたらお互いを紹介したり、


・『BさんにDさんを紹介したら、Bさんの悩みは晴れるかもな』

と思ってDさんにお願いしてみたり、それから例えば仕事の中ででも


・『この仕事は力仕事だし、でも十分にお礼が出来る話でもないから、
ここは「男性」→「友人」→「暇人」と引き出しを引っ張って、
よし!今回はEクンにしようかな。』

なんていう具合に、随所で役に立つことが多くございます。


その数ある引き出しの中の一つに、
『伊勢神宮行き』という引き出しがございます。

これは呼んで字の如く「この人、伊勢に言った方が良いナ」
と私が勝手に思うところの引き出しなのですが、
それが案外に多くて、100人に一人くらいの割合で出会います。

つい先日、夜遅くに日課の散歩をしていたら、
終電に駆け込むところの知人に偶然出くわして、ハッと致しました。
と申しますのも、その人は以前、私が伊勢神宮行きのレッテルを貼った人で、
随分元気そうにしてはいましたが、でも何かが気になりました。


同日の昼、三重県は松阪で大変お世話になった方が、
御闘病の末お亡くなりになったと訃報が入りました。
その翌日、私はお別れをしに三重へ発ちました。
松阪に着いた時点でお通夜まで一時間半あったので、
早く行ってもお騒がせするだけかなと思い、
一つ先の伊勢まで行って折り返すことに致しました。
外宮に行く時間は なかったので、
内宮へ直接行って、身を清めて、
数人の知人にお守りを買って、すぐ松阪に向かいました。

後日、先日バッタリ会った知人のところを訪ねてお守りを渡しました。
自分でもよくわからないのですが、
今まで、『伊勢神宮行き』(と私が勝手に決め込んだ)方々の中で、
実際伊勢に行って五十鈴川に手を浸した人は、
その後何かに目覚めたように生きてゆく人がほとんどでした。
人生の迷いが晴れたり、時には、病気を 見付けたり、
治ったりする人もいました。
私が偶然、伊勢に行くのと前後してその知人にバッタリ出会ったことは、
その知人にとっての伊勢が、
やはり意味深いものであるのだろうと強く感じたと同時に、
松阪の恩人が、最期の最期まで念じておられた何かが、
私の心に届いたのだな・・・と感じて、
そのお気持ちを謹んで拝受致し 、三重県に向かうことが出来ました。


不思議な一週間でした。
普通であれば落ち込んでしまいそうな一週間でしたが、
この一週間の私の心を伊勢神宮が大きく包んでくれていたお陰で、
乗り越えることができました。
伊勢は、奈良や京都と違って、
何となく行ける場所と距離ではありません。
そこが又、伊勢神宮の一つの強さなのでしょうが、
本来であればわざわざ参らねばならない場所であるのにもかかわらず、
こういう御縁を思いますと、伊勢が私を呼んでくれたのかな・・・、
と思ったりもしています。

日頃の行いの悪い私が言うのもだいぶ見当違いでしょうが、
神様に、感謝致します。


正派創始95周年を祝う関東大会も無事に終えて、
私も7月中演奏のお仕事はビクターのCD録音を残すのみとなりました。
ヨーロッパを一ヶ月一人旅して、
色々な人物に刺激されて、見聞を広めて、
芸術の秋に備えようと思っております。
では、行って参ります。


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2008/7/11 連絡事項三つ

いつもにも増してつまらない日記になってしまいそうですが、
連絡事項を三つ御案内させて頂きます。


冒頭にまずメディア関連のご案内です。
8月初旬NHKラジオで、演奏を放映して頂くことになりました。
来週その収録をNHKで行うので、正確な放映日時がわかり次第、
再度当サイト上でご案内させて頂きます。
曲目は四季の眺で、箏は家元・中島靖子、
唄が母の中島一子、尺八・人間国宝山本邦山、
私は三味線です。
謹んで御案内を申し上げます。


今年のヨーロッパ遠征ですが、
まずはウィーンに入って、それからチェコはプラハに立ち寄り、
後半をドイツで過ごす予定です。
チェコは以前、電車の乗り換えで一時間ぐらい降り立ったことがあるのですが、
その気になって(?)行くのは初めてです。
本当は、ギリシャとか、スペインとか、
他にもっと行きたい国があった のですが、
色々と悪条件が重なったので、今回は見送ることに致しました。
でも、そんな言い方をしたらチェコに失礼なので、
チェコの歴史と文化にしっかり触れてこようと思っております。
写真を撮って、当サイトに掲載させて頂きます。

と、いう訳で8月は一ヶ月、日本を離れます。
日本発着の日にちが少し前にズレ込みましたので、
スケジュールの欄を訂正しておきます。
とにかく7月31日に出て、8月31日に帰って参ります。


最後に、もう一点、ご連絡がございます。

私の作品『譚詩曲(バラード)』が、ようやく楽譜になりました。
これで百鬼夜行に続き、私の作品の楽譜が全部仕上がりましたので、
音源も合わせ、御希望の方々には既に大体が御連絡済みかと存じますが、
もし不行き届きや、新たに御要望の方がいらっしゃいましたら、
お手数ですが、ご一報を下さいませ。

以上、どうぞよろしくお願い申し上げます。


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2008/6/27 四谷の足袋屋

5月14日に綴った「市ヶ谷のオアシス」に続く、
市ヶ谷近隣の良いお店シリーズでございます。
今回は私の住んでいる市ヶ谷田町より、とぼとぼと歩いて15分弱、
お世話になっている老舗の足袋屋を御紹介させて頂きます。


大正の時代に創業、今の旦那が三代目で、
創業者は旦那の御爺様に当たる方だそうです。
旦那ももうかれこれこの道一筋40年だそうで、
今やお江戸が誇れる職人の一人に数えられる方だと思います。
私は閑散とした日曜日の市ヶ谷を散歩するのが好きで、
本番が無い日曜日などはよく散歩に出掛けているのですが、
その散歩 中に見つけたのがここの足袋屋さんで、
いまどき、しかもこんな近所に足袋専門店があったとは・・・、
本当に驚きました。
日曜日は定休日なのだそうで、その時は外から中を興味津々、
じろじろと見る今思えば不審人物の様でしたが、
平日に出直して、今度は堂々とお店に入ることが叶いました。


ガラガラ。


「御免下さい」


「いらっしゃいませ。」


・・・・はてさて、足袋。

私は学生の頃から”馬鹿の大足”と称されるほどの大足で
実にサイズは27〜28cmぐらいあるのですが、
その割に足首が細く、28cmの足袋を履くと足首がぶかぶかで、
動く度にこはぜ(足袋の足首の部分にある爪形の留め具)が
外れるという独特の悩みがございました。
その悩みを、これこれしかじか、旦那に相談して みたところ、


「奥田様、私共は奥田様の足に合わせた足袋を
 お作り出来ると思います。」


「本当ですか?私の足の形に合わせて作って頂けるんですか?」


「はい。一ヶ月少々、お時間を下さい。
 今日、奥田様の足の型を取らせて下さい。」


このニ、三往復程度の会話で、
私の長年の悩みが解決されてしまいました。


一ヵ月後、足袋が仕上がりましたと連絡が入ったので、
心弾ませてお店に参りました。
私の顔を見るなり、
旦那が「奥田雅楽之一様」と丁寧に紙で包んである御品を手に取って、
試されますかと聞くので、是非と応えて、
出来立てほやほや(?)の真っ白々な白足袋を履いてみました。


ピタッ。


「御主人、ピッタリです!これは凄い!!」


旦那は軽くお辞儀をして、微笑みました。


私も旦那にお辞儀をすると、旦那は言いました。


「奥田様、私共職人の世界もですね、
 後を継ぐ者がいる、いないに関わらず、
 今、手作業に必要不可欠な道具そのものが段々なくなってきたんです。
 おそらく、この足袋屋も私限りで閉めることになりましょう。
 こういう時代になってきますと、仕方ないですね。」


「御主人、この白足袋、大切な舞台で使わせて頂きます。
 有難うございました。」


私は次の足袋の注文をして、店を跡にしました。

旦那は私の姿が見えなくなるまで、頭を下げて見送っていました。


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2008/6/19 若。

※久しぶりにスケジュール更新させて頂きましたので、
ご案内を申し上げます。


6月17、18日は正派邦楽会の全国役員会議で、
全国から重鎮が東京に集って会議を致します。
ちなみに私はまだまだ青二才なので役員に任命されるはずもなく、
こういう日は、案外、束の間の休日となります。

作日(17日)は胡弓のお稽古があって、
恩師・森雄士先生のお宅に伺っておりました。
先生に、厳しくお稽古をつけて頂いて、全身から良い汗が出ました。
森先生にお稽古をつけて頂くと、自分の未熟さに愕然とする反面、
森先生のキラリと光るその才能に、喜びと活力を頂きます。
本来なら私の方が先生に御恩を返さねば ならないのに・・・。
先生には、いつも頂いてばかりで情けない弟子だと反省しております。

本日18日は、これといった予定も無かったので、
ちょっと知人のお見舞いに都内の病院へ行って参りました。
その方は舞踊関係の方で、女性の方で、
人間的にも芸術的にも素晴らしい方なのですが、
二ヶ月前に突然自宅で倒れて、三日三晩生死の狭間をさまよいました。
その後、奇跡的に回復なさったのですが、
ただ、どう にも食事が喉を通らないようで、
毎日の点滴で体調管理をなさっているとのこと、
私も、それは良くないなと感ずるところでした。

もしかしたら・・・という願いを込めて、
今日病院へ行く前に日本橋の千疋屋に寄って、
グレープフルーツのゼリー(これは私の大好物なのですが)を買って、
お土産に持って行ってみました。

最初、

「具合が悪いから、せっかくですけど・・・」
と仰っていたのですが、会話がはずんでいくうちに

「ゼリー、頂いてもよろしいんですか?」

と、気持ちを持ち直されました。

「その為に持って参りました。どうぞどうぞ。」

一口、二口、三口・・・。

「さとしさん、美味しいわ。ありがとう。」

その言葉に、私もちょっと、胸がつまりました。どうか、
一日でも早く御回復なさって頂たいものと、念じております。


市ヶ谷へ戻ると、会議が終わって、
役員の先生方が帰支度をなさってあられる最中でした。


「あら、和歌旦那。」

「あらら、若。お見えにならないと思っていましたわ。」

「若サマ、御機嫌よう」

「若、お元気そうで。」


・・・そう。私は、いつの日からかワカと呼ばれるようになって、
いよいよそれが定着してきている気がする今日この頃でございます。
ワカとバカは一字違いで、自分らしいナと思うところでもございます。


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2008/6/13 キライなもの三つ

好き嫌いは、誰にでもあるものですが、
私の場合は、人間でも、食べ物でも、
「好き。」はともかく、「嫌い。」は殆どありません。
ただ、今のところどうしても駄目なものがあって、
特に駄目なものを三つ、遠慮なく挙げてみようと思います。

まず、食べ物で、『羊の肉(マトンもラムも)』が嫌です。


それから、雰囲気の点で小さい頃から所謂、『お祭り』が嫌いです。

三つ目は乗り物というのか、娯楽になりますが、
私は高所恐怖症で、まずもって高いところが大の苦手なのですが、
それもあってか、『ジェットコースター』が嫌いです。
今思い付く限りで、この三つはワースト3になります。

羊の肉はあの独特の臭いが全く駄目で、
今までも何度も何度も克服しようと試みたのですが、
無理なものは無理でした。
数年前、蓼科の牧場で羊と目が合って、

「自分も未年だし、もう挑戦するのはやめよう。」
と思い、以来食べるのを止めました。

お祭りは、実家の隣が神社なのですが、
小さい頃から祭りの季節になると、
嫌を通り越して、何かが怖く感じ、
不安で不安でなりませんでした。
間違っても神様をお祭りするという趣旨に
否を唱える気持ちは全然ないのですが、
あのてんやわんや している雰囲気が、
どうも苦手です。

この話には極めつけがあるのですが、
実は、私の実家は隣が神社で毎年秋にお祭りがありました。
10年くらい前、
その祭りの日に神社で煙草の不始末があったらしく、
夜中にそれが火事となって(しかも私が第一発見者でした・・・)、
お社は全焼、隣接する我が家も随分被害を受けて
近所中が肝を冷やしました。
初節句を迎えた大切な場所だったのですが、
一夜にしてその神様が消えたという、嫌な思い出です。


ジェット・コースターは、速い、高い、落ちる、
三拍子揃って全てが苦手ですので、
間違って乗ってしまった際には、
本来娯楽であるべきものが拷問へと変わります。
かつて富士急ハイランドが誇るフジヤマが世界一であった頃、
何を思ったかそれに乗る決心をして、
乗り込んでみたのですが、
その時居合わせた友人達 曰く、

「あの時のキミは、よほど怖かったのか、
 だいぶおかしくな人間になっていたぞ。」

だそうです。
私が生きてきた中で、一番怖かった経験です。


これから先、出来れば避けて通りたいものは、
今のところこの三つくらいでしょうか。(笑)


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2008/6/3 白い象 と 私

自ら発表するのも大人気ないのですが、
本日、私は29歳になりました。


遡ること29年前、母は、私を身篭ったことが判る前日の夜、
夢枕に『白い象』が出てきたんだとかで、
私とその『白い象』に一体何の関連性があるのか
28年生きてきて今のところ不明ですが、
とにかく無事に、昭和54年6月3日の朝6時、
東京都は小平市に奥田智之は生まれたようです。
吉元医院という病院で、
名医で ある吉元先生にこの世へ引っ張り出してもらいました。


オギャー。


という泣き声を聞いただけで、
待合室にいる祖母には男の子だと分別がついたようで、
我一族は完璧の女系ですから、
いよいよもって待望の男子誕生に一同大変喜んで下さったようです。
一同の期待に応えられるほどの者ではありませんが・・。


本日より一年間、二十代の集大成となる訳でして、
いよいよ「半人前ですから」と
言い訳を言ってられない年頃になって参りました。
恥ずかしくない人間である為に、
日々勉強をして参りたいと思っております。


抱負などという大袈裟な目標を立てても果たせぬのがオチですが、
敢えて一つ挙げるとするなれば、
「作曲の一年」にしたいと思っております。
結局28歳の一年は、芸を磨く方に気持ちの全てが傾いておりました。
それはそれで良いのかもしれませんが、

先日、祖父との会話の中で

「作曲は若い内に、沢山作らなきゃ。
 でも、智之は少し忙し過ぎる。時間を作りなさい。」

と言われ、心に稲妻が走りました。
大作、小品、コダワリ無く自然に想像してゆくことが、
道を開いてゆくと信じて作曲してゆきます。

無論、芸の鍛錬も怠ることなく、
自らを戒めて勉強を重ねて参ります。

※ファミリーコンサートへ御来場下さったお客様へ

28日は、週半ばの忙しない最中、
御来場賜りまして有難うございました。

私はまだまだ未熟だなと痛感する次第ですが、
師匠である祖父母と、
あのように一対一で演奏させて頂けますことは、
何よりの勉強の場です。
確かに、貴重な舞台を重ねていく中で、
一つ一つ己の内に蓄積しているものがあるように思います。
これから先、十年、二十年、
それらの経験が生かされてゆくのかもしれません。
お客様の大きな拍手、心に大切に仕舞っております。
心より御礼申し上げます。
本当に有難うございました。


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2008/5/14 市ヶ谷のオアシス

私の生活している市ヶ谷近隣には、
普段私が何かとお世話になっているお店が幾つかございます。
今回はその内の一つを、綴らせて頂きたいと思います。


さて、市ヶ谷にとても美味しい中華料理店があって、
空き時間によく、とぼとぼと歩いてそこへゆきます。
市ヶ谷という場所は今や言わずと知れたオフィス街で、
又同時に学生も多い街ですから、
大変に活気がございます。
その反面、やや落ち着きがないとも言えますが、
その中にあって、
ここの中華料理店はある種の異空間 を
保ち続けている気が致します。

最初にそのお店を知ったのは、
そう、祖父母達に連れられて
御馳走してもらったが縁だったのですが、
それから随分と経ったある日、
大作の作曲で気分が滅入る時期があって、
いよいよ気分転換が必要だと感じましたら、
ふと゛中華を食べようじゃないか゛
とお告げ(←ただの思い付き)があって、
同店に再び行くようになりました 。
私も常日頃、演奏面での課題を多く抱えておりますので、
「作曲」ともなると、ついつい後回しにしてしまいがちです。
それもあって、そのお店へご飯を食べに行く度
作曲に思いを馳せるものですから、
美味しいご飯を食べているうちに、
次第次第にそこで作曲の構想を練ることが習慣づいてしまって、
気がつけば、すっかりハマ っていたという訳です。

そのお店へ僕が余りにも頻繁に出没するもんですから、
シビレを切らせた店長さんはじめ、従業員の方々も、
段々と優しく声を掛けて下さるようになって、
お店の歴史や、お料理の内容、中国での体験談など、
楽しいお話を色々聞かせて下さるようになりました。
僕も最近は一人ぼっちで食事をすることが多いものですから、
余計に 嬉しく、有難い思いがしました。

専属の二胡奏者もいて、音楽の話もします。
ある日、参考までにと「春の海」の楽譜をお渡したら、
その数日後私がお店にいた際に、
さり気なく「春の海」を弾いて下さって、
その演奏もさることながら、
そのお気持ちには随分と心が潤いました。


今自分が置かれている状況を考えてみても、
特別な場所というのか、心のオアシスとでもいうのでしょうか、
気持ちが休まる空間が必要だと思います。
そのお店に出会って、本当に良かったです。


感謝の気持ち一杯に、
美味しい中華を食べていますという、
私事のお話です。


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2008/5/1 職人との戦い

ここ数年私はいわゆる三味線職人と、
三味線という楽器について、
激しく意見を戦わせて参りました。

楽器の研究は勿論のこと、
演奏の際に必要な”バチ”、”駒”、”糸”等についても
試行錯誤を繰り返し、
さらには楽器の材質となる皮や木材、
象牙に至るまで、研究と探求を重ねて、
ある一定の答えが出掛かっております。

三味線の修業に入ってからというもの、
一回一回の御稽古は無論、
一回の舞台は私にとって研究成果を試す貴重な機会でした。
演奏後に頂く師匠やお客様の御指摘、
御批評は誠に貴い御意見で、
それに自身の反省点を加えて職人に伝え、
次の新しいステップに繋げて参りました。



今日まで職人さんと詰めてきた内容は



・バチ・・・材質、ヒラキの大きさ、全体の形状、しならせ具合

・駒・・・形状、材質、穴の開け方、鉛の位置

・糸・・・太さ、種類

・楽器・・・木の材質、胴のくり型、皮を張る強さ

・及びそれぞれの組み合わせ(相性)



これらが本番の舞台上、
音色としてどのように影響してくるのかというものです。



とにかく最初の数年間は苦難の連続でした。
舞台で大失敗もしましたし、
ある時は私のこだわりが仇となって師匠にも随分迷惑を掛けました。
私は無理難題を職人に投げかけると、
職人は黙々と取り組み、
品を通して無言のメッセージを送り返しました。
職人は、職人の誇りを崩すことなく、
資材を投げ打つ覚悟で私の芸に挑 んで下さいました。
私は、その職人さんに出会わなくして、
今の自分はないと思っております。

無論、三味線は厳しい技術と精神の鍛錬がモノをいうもの楽器です。
しかしながら、技術や精神という枠でなく、
『芸』という大きな枠で考えますと
「たかが理屈、されど理屈で」、
探求し続けてきたその知識は、
きっと私の芸の一部になっていくのではないかと思っております。



職人と私の中で固く約束されてきたことが一つあります。



”型にはまらない”ことです。



いつの日になるのかわかりませんが、
”型”が出来るその時まで、
未だがむしゃらに勉強していかねばならないと、思っております。


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2008/4/23 『芸一筋』=『品格』

ヨーロッパ遠征を中止にさせて頂いて、ゆとりが出来ました。
今ここで、ゆるんだ足元をしっかり固めておきたいと思います。


私はどういう風の吹き回しなのか、
随分前から西洋音楽に興味を持ってしまい、
バッハであろうが、ベートーベンであろうが、
聴けば何の曲か分別がつくほどにまで、
時間と情熱をそこに注ぎ込んで参りました。

ところが、最近思うのですが、やはりこの環境に生まれて、
日本の伝統芸能に携わっていくべきこの私が、
こうして西洋文化にかぶれてしまったことは相応しいとは言えず、
心のどこかで思い改めねばならないと思っております。


まず、日本を知る。


日本の歴史を知る。

日本のお行儀を知る。

日本の音楽を知る。


28年分の落し物を拾い直し、
親しい先輩や先生のお力を借りて
今一度日本について勉強しようと思います。
恥ずかしくない、
伝統芸能家の姿を強く心掛けて参りたいと思っております。
ここを一つ「初心」と定め、貫徹して参りたいと思っております。


一流の古典芸能家に相応しい言葉があると思います。
それは「品格」です。
私の尊敬する演奏家の一人に、
義太夫の三味線弾きで十世・竹澤弥七(明治43年〜昭和51年)
という方がいらっしゃいます。

弥七氏と、元NHKアナウンサーの山川静夫さんの対談に、
印象深い一問一答がございます。
以下、その一節です。




山川さんの質問に始まって・・・





「これまでの人生で、一番苦しかった時は?」





「そんなもん、いつも苦しいですわ。芸は一生苦しみ続けるもんとちがいまっか。」






・・・芸一筋の、気品に満ちた言葉だなと思いました。
そういう私自身はまだまだ未熟であると思いました。
今更、出来もしないのに三味線一筋、箏一筋というのは、
私も随分と虫のいい話ですが、遅ればせながらこういうことに気が付きましたのは、
今後の私の人生に、そして芸に、反映してくるものと思っております。


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2008/4/16 ”前世”のこと

四月に予定しておりました、
ドイツへの遠征を中止にさせて頂きましたので、
お知らせ申し上げます。

昨日、名古屋の演奏会から帰って参りました。
東京を彩った桜は花びらとなって散ってしまいました。
桜も本当に綺麗な盛りはあっという間で、
毎年決まって名残惜しい心持ちになるものです。
これが、日本の持つ四季の潔さなのでしょう。

つい先日、私のホームページを管理してくれている
みやはらたかおさんと、
その方を紹介してくれた友人の三人で、
ゆっくり鍋を囲みました。
色々と話をしている中に、
いわゆる人の゛前世゛について語らうことがあって、
私も改めて私の前世について考えてみました。
改めてと申しますのも、
私は以前から幾度となくこの゛前世゛について考える事があって、
いくら思い詰めても答えが見付かる試しはないのですが、
前世の有無や、私自身が何者なのかなど(私も全く物好ですが)
想像を巡らせてみます。
何でも、その方は
三夜連続で、ある夢を見て、
その手の人に前世だと言われたらしいのです。
ちなみに僕に、そういった類いの夢を見た記憶はありません。
私には経験がありませんが、その方にはあったそうで、
話を聞くと本当に面白くて夢中になって聞きいてしまいました。
ちなみに彼の前世はイタリア人だったそうです。
私はたった一度きりですが、
自分の前世を呼び覚ます(?)、
不思議な出会いがございます。
とある、古いミサ曲との出会いです。
ある日、レコードでその曲を聴いて、

何だか懐かしくって、
何だか懐かしくって、
懐かしくって、胸が張り裂けそうになりました。
気になって、その曲について調べてみると、
色々面白い伝説があって、
その細かい内容は割愛しますが、
とにかくバチカンにあるあのミケランジェロの天井画で有名な
システィーナ礼拝堂の中でしか歌う事を許されていない、
所謂、門外不出の秘曲であったそうです。
私はおそらく前世が敬謙なカトリック教徒で、
この懐かしさはそ の記憶に、喚起されたものと解釈致しました。
私は未だバチカンを訪れていませんが、
いつの日か参拝したいと切望すると同時に 、
日本人に生を受けた以上は決して大和魂に逆らわない、
恥ずかしくない日々を送ってゆく事こそが、
屈折のない人生だと感じている、今日この頃であります。



※名古屋でお世話になった方々へ


卓美会の皆々様、素晴らしい演奏会おめでとうございました。

私も先月の下合わせに出席できない身でありながら、
勝手きままに色々演奏してしまい、少々反省をしております。
本番は、御披露の演奏をはじめ、
皆、リハーサルより綺麗にいったんじゃないでしょうか。

ご来場頂いたお客様、県内在住の方、県外がら遠路お越しの方、
皆様本当にありがとうございました。
御感想、遠慮なく私のホームページにお寄せ下さいませ。

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2008/4/3 年度末遠征物語

3月26日から、31日まで、日本国を横断しておりました。

最初の滞在地は北海道旭川で、邦楽の夕べ という会に出演する為です。
箏曲、長唄、尺八、様々な分野の古典芸能が一つの演奏会を作り上げる、
ありそうで、なかなか無い、画期的な演奏会であったと言えます。
私は地唄の「雪」と、協奏曲のソロを務むる役目だったのですが、
言うは易しで、全く違う2曲を立派に弾くのは
精神と頭脳の内容をきちんと整理する必要がありました。
案じていたわりに、本番はどういう訳かお客様に随分喜んで頂けて、
僭越ながらアンコールに「春の海」を弾かせて頂きました。

二月に触れた綿毛のような旭川の雪は、もうすっかり溶けていました。

翌日は、京都の法然院で演奏会がございました。
関空に飛ばねばならない訳ですが、間に合う便が旭川空港に無かったので、
始発で千歳に向かい、無事、法然院に着いたのは、
玄関先の短針が午後の三時を指していたでしょうか。
法然院では「石橋(しゃっきょう)」という曲の
胡弓を弾くお約束になっていたので、頭を胡弓モードに切り換えて、
冷や汗混じりに演奏させて頂きました。

打ち上げで連れ行って頂いたお店が、
何だかヨーロッパ人顔負けの洋風家庭料理で、
思いがけず、至福の一時を頂きました。


翌日から、広島に向かいました。

同地には、こんな私を慕ってくれる子供達や大人達がいて、
本当に勿体ない事なのですが、
私が中心となって、朝から晩まで、
参加者全員が「学ぶ」気持ちを一つにして、
充実した時間を送りました。
興味本位で尋ねてみると、どうやら子供達は一人一人、
夢を持っているようでした。
箏の先生、パン屋さん、お母さん、動物のお世話…

そういえばかつて私の夢は、宇宙飛行士でした。


一週間ぶりに東京へ戻ると、市ヶ谷の桜が満開で、
それはそれは本当に綺麗で、目頭が熱くなりました。



※旭川でお世話になった方々へ


先日の邦楽の夕べは、大変な盛会で本当に嬉しく、有難く存じました。
ここ数年で何度行かせて頂いたかわかりませんが、
僕は旭川が大好きです。
行く度にそう思います。
これからも、仲良くしてください。
打ち上げ、途中退席しちゃって、ごめんなさい。



※おち椿の会でお世話になった方々へ


この度は、思い掛けない勉強の場を頂けて、有難かったです。
勉強不足で本当に申し訳ありませんでした。
このメンバーでの打ち上げでは、
いつもイジられキャラになるのが疑問ですが、
又、ご縁があったら、こんな僕をイジってやって下さい。



※学ぶ会の仲間達へ


無事に東京に戻りました。
今回も、至れり尽くせりで、勿体無いことでした。
何から何までお世話下さり、申し訳ありません。

次回は、勉強会です。皆さんがやりたい曲を、
やりたいメンバーで、やりたいように音楽を作って聴かせてください。
楽しみにしています。

広島は、瀬戸内海と宮島が、何かを守っていますね。
行く度に、いつもそう思います。

次は、子供達の嫌いなハーブ・ティーを持っていきますね。

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2008/3/26 神宮の清流

※写真をどんどん更新していきます。
感想等、メールで教えて下さい。

本年最初の、神宮参拝に、
伊勢へ行って参りました。
いつもなら前日に現地へ入って
翌朝一番に参拝させて頂くのですが、
今回はそれが叶わず、
未だ朝靄の掛かる東京から伊勢へ向かいました。
私はそれ程にまで神仏に傾倒しているつもりもないのですが、
やはり、生身の人間には生み難い
大きな力というのは実際ある気がします。
私が、日本で一番凄い場所と感じるのが
まさにここ伊勢の神宮。
私が、日本で一番清らかな川だと感じるのが、
ここに流れる五十鈴川。
私が、日本で一番長い歴史を刻み込んでいると感じるのが
ここに聳える千年杉です。
中でも私が一番敬愛するのは五十鈴川です。
およそ半年ぶりに浸した五十鈴川の水は、
いつもと変わらぬ清らかな冷たさを保っていました。
「冷たい…。五十鈴川。」
何と申しますか、体の外でなく、
体の内へ涙が流れていく様な感じがしました。
夢見を悪くする体の中の熱が、
洗い流されてゆくのを感じました。
又、今回は、御祈祷(所謂、おはらい)をお願いしようと思い、
御祈祷の儀に参加、頭(こうべ)を垂れて、
心身の隅々まで清めて頂きました。
外宮、内宮、と参拝し、
全ての儀を終えた頃はもう昼下がり一時半に達していました。
その後、津市でお世話になった先生が
文部科学大臣賞を受賞なさった記念祝賀会に出席し、
夜遅く東京に戻って参りました。
そんな私は今北海道におります。
このまま明朝早く京都へ飛んで、
広島で私をそのまま待っていてくれる仲間達のもとへ行きます。
帰京は31日の夜になります。

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2008/3/12 遠征続きの3月

久しぶりに日記を書いている気がします。
近日中に写真とスケジュールを更新致しますので、
お暇な時に御笑覧下さい。


ここ一ヶ月は遠征が多くって、この機会に敢えて整理してみますと、


北海道・・4日間

京都・・・5日間

名古屋・・・3日間

広島・・・4日間

三重・・・2日間


と、一ヶ月のほぼ半分を東京以外で過ごしております。

未熟な私を必要として頂けている事は大変有難いことで、
勿体無く存じております。

しかしながら遠征に備える勉強時間の不足は避けられず、
しっかりと自分の責任を果たせるかどうか、
不安が少しございます。
こういう時にものを言うのが移動時間の過ごし方で、
移動中に暗譜のお浚い(自己流の・・・)をしたり、
作曲をしたりします。

”集中”というのは大したもので、音の世界に没頭しておりますと、
数時間の移動もあっという間に感じるものです。


スケジュールの欄にございます4月のヨーロッパ遠征は、
予定してはおりましたものの、
悪条件が重なってちょっと難しくなってきております。
ひょっとしたら、日本にいることになるかもしれません。


私は、去年から新宿区市ヶ谷で生活をするようになって、
朝は早くから、夜は随分遅くまで都内を転々としております。
食生活も段々と偏ってきている気がして、
ふと目に留まった野菜ジュースや、
青汁などに手を伸ばす己の有り様に、ウンザリしております。


※京都でお世話になった方々へ


都会の皆々様、
この度は家元と私に多くのお心遣いを賜りまして、
有難う存じました。
打ち上げでは皆さんと色々お話が出来て、楽しかったです。
京都のおばあちゃんこと、寺澤先生を皆様で大切にしてくださいね。
京都にはよく参りますので、よかったら又遊んでください。

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2008/2/18 楽器の命名

私の愛用する箏には『醍醐』という名前が付いておりますが、
楽器に名前を付する習慣というものは、
意外に浸透していないものである気がしております。

西洋楽器には、例えばピアノでいうスタインウェイであるとか、
バイオリンでいうストラディ・バリウスであるとかの様に、
製作者の名前を代々受け継いでいくという慣習があります。


日本の楽器は西洋に比ぶると寿命が随分短かく、
又、元来我が国が誇る職人というのは、
いわゆるアピールをしない裏方の気質にあるせいでしょうか、
楽器職人と演奏家は互いに顔も名前も知らないのが通例で、
とにかくも楽器の名前とは無縁なのであります。

そこで私は、思い入れある楽器には、
やはり名前を付けてあげるべきだと、考えています。

家元・中島靖子が愛用する箏には、全て名前があります。
ご紹介しましょう。
実父の初代家元から譲り受けた名器『富士(ふじ)』、
同じく『若竹(わかたけ)』、
低い調子専用に『柾(まさ)』、
竜舌に家紋のある『紋(もん)』、
沸き立つその木目から『瑞雲(ずいうん)』、
昨年新しく仲間入りした『寿(ことぶき)』、
これは夫と金婚式を迎えた記念にそう名付けたそうです。

唯是氏の箏にも、
『由井(ゆい)』、『五十路(いそじ)』、『水野(みずの)』等々、
それぞれに必ず呼び名が付いております。

宮城道雄先生は長らく愛用された『第一箏(だいいちこと)』、
晩年愛用なさった『越天楽(えてんらく)』等が有名です。

私めは現在フル稼働の『醍醐(だいご)』の他に、
『喜長(きちょう)』と名付けた楽器を温めております。
これは、箏曲家・高野喜長先生の形見に戴いた大切な楽器です。

さて、皆様如何でしょうか。
未だ名前を付されていない愛器がおありでしたら、
この機会に是非、命名されてはいかがでしょうか。
楽器を名前で呼んでいると、親しみが湧いてくるばかりか、
その名の示す通りのたたずまいに、見えてくるものである気が致します。


そう。楽器というものは、生きています。

品格ある良い名前を付けてあげて下さい。


きっと、きっときっと喜ぶことでしょう。

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2008/2/12 市川春猿の会

お蔭様で、無事に終了致しました。
遠路御来場下さった方々に、心よりの御礼を申し上げます。
場内は、凄い熱気で、私も必要最小限、燃えました。
この度は、同会で演奏させて頂きました、『神仙調舞曲』について、
少しお話をさせて頂きます。
この曲は、唯是震一の代表作であると共に大ヒット作といえる曲で、
箏を専門的に勉強した者であれば皆が演奏出来る日を夢見る曲、
といっても過言にはならないかと存じます。

神仙調の神仙というのは、専門家の間ではよく使う表現なのですが、
雅楽十二律という日本の音名で、
西洋でいうところのド゛Do゛を意味しています。
基音が神仙である曲ということで、
神仙調による、舞曲風の曲という訳です。
大変な難曲で、舞台はおろか、
稽古におきましても好ましく演奏するのは中々適わず、
これを弾きこな すのは正に至難の技といえます。
実はこの度私が同曲を演奏させて頂こうと
決意致しましたのには理由がありました。
この市川春猿の会が催された埼玉県飯能市は、
作曲者の唯是震一が郷里の北海道から上京の後、
長らく住んでいた地で、大変縁(ゆかり)ある場所でした。
ちなみに唯是家のお墓は、
今となっては北から東に移されて、今は飯能市にございます。
そういう訳ですから私も幼少の頃から飯能にはよく参りまして、
演奏家として三度飯能市を訪れるこの機会に、
祖父の代表作に挑戦しようと、
そういう経緯(イキサツ)でございます。


私が申すのもお門違いですが、
春猿さん、猿若さん共に、芸に対してとても誠実な方で、
お知り合いになるよい機会となりました。
これからの、歌舞伎界を盛り上げていって頂きたいものと、
心より念じております。
本当に有難うございました。


一つ、お知らせです。
3月9日に、京都で家元・中島靖子と久しぶりにお手合わせ願います。
曲目は「四季の眺め」といって、
地歌・筝曲の中でも名曲と謳われるものです。
古典曲、しかも私の一番好きな三味線を家元の箏で掛けて頂くのは、
いくら身近におります私といえども、
常に無い貴重な機会であります。
命懸けで、音と作ります。
もしお時間がございましたら、
京都までお出掛け頂けますと、
勿体無くも有難く存じます。



※飯能市、篠原先生御社中及びヤスコ姫、お世話になりました方々へ

この度は、自分が臨んでも得ることの出来ない舞台
経験させて頂きました。
四重奏も、本番前は肝っ玉の皆様もさすがに緊張の面持ち、
ちょっと唇が乾き切って目が点になっていらっしゃいましたご様子でしたが、
演奏は、まずまず無難に終えられましたよね?
ちょっと舞台が広過ぎましたせいか、
お互いが聞こえに くくって、そこが唯一の誤算でしたでしょうか。
でも、良いのです。
きちんとお勉強なさって、清々しく、
舞台露払いの役目を十二分に果たせたと思っております。
本当に、おめでとうございました。


今度、打上げをし直しましょう。

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2008/1/29 歌舞伎の稽古

市川猿之助率いるおもだか屋さんと
正派邦楽会のお付き合いは大変に古いもので、
それは先代の猿之助(いわゆる猿翁)さんと、
こちらも先代の正派家元・中島雅楽之都の出会い、
時代は昭和初期にまで遡ります。
両者は、宮城道雄先生他数名と共に新日本音楽という運動を起こした、
盟友でありました。
私の祖父、唯是震一も現・猿之助さんとは御縁が深く、
私もこの度おもだかやさんの門をくぐる際には、
巡り巡る因果の関係と申しましょうか、
我が身の引き締まる心持ちが致しました。

演目は「新娘道成寺」、いわゆる「鐘の岬」で、
この度私奥田雅楽之一、三味線を弾かせて頂きます。

流儀や解釈が様々である日本伝統芸能の世界は、
一つの舞台を作り上げていく上でまず欠かせないのが
゛寸法合わせ゛だと思います。
市川春猿さんとも、
曲の運び方、間(ま)のとり方などを中心に入念な打ち合わせ、
意見交換を重ねました。
次第次第に互いの色と色が混ざり
やがて新しい色味が生まれます瞬間は、
伝統芸能家として冥利に尽きるものがあります。


同会で、『神仙調舞曲』という難曲を一つ抱えておりますので、
頭がどうにかなってしまいそうですが、
若輩の私が愚痴を言っている場合でもないので、
稽古を積んで、せめて若若しい演奏が出来ればと、念じております。

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2008/1/15 平成二十年・謹賀新年

謹んで新年の御慶びを申し上げます。
本年明けまして1月2日より、ヨーロッパに発ってしまいました関係で、
皆々様へのご挨拶が遅れてしまいました事、
この場を借りてお詫び申し上げます。

本年もどうぞ奥田雅楽之一をよろしくお願い申し上げます。

この度はウィーンでのお仕事と、
同地でのコンサート、ドイツでの所用を関連付けて、
二ヶ国を行き来致しました。
スケジュール、並びにウィーン街中での写真、一斉に更新致しましたので、
ご笑覧頂ければ幸いに存じます。

新年早々に日本を離れるというのは昨年まで一度も経験が無く、
私の勝手な我が儘で年始の行事を全て欠席、親族はじめ、
多くの方々に大変なご迷惑をお掛けする結果となってしまいました
・・・などと言っても、日本を離れることが決まった以上、
女々しく後ろ髪を引かれても仕方が無い(本当に、反省しております ・・)ので、
ヨーロッパの新年を堪能し、
新鮮な空気をたっぷり吸わせて頂くことが出来ました。

ドイツで少し自分の稽古をし、心置きなく帰国する心積もりでおりましたが、
今回は、思いがけずドイツにて
私の崇拝するワーグナーの楽劇「ワルキューレ」とタイミングが合致して、
目出度く一階席で鑑賞、まるで子供のように恥ずかしいくらいの号泣をして、
深く心にその感動を刻み込みました。

今朝、東京に戻って参りました。
御陰様で清々しい心持ちで帰国し、何と申しますか、
今一度背筋を伸ばして芸道に励む体勢が整っております。
本年は、何だか良い年になりそうな気が致します。(←前向きに!!)
皆々様にとって、この戌子の年が、お健やかなものでありますよう、
心より祈念させて頂きます。


※ウィーンでお世話になった方々へ

ウィーンでお世話になった皆様、
コンツェエルト・ハウスで共に演奏した怜音会一同、
手伝ってくれた友人のマーティン・デルカ、
久しぶりに顔を見にいらしてくれたウィーン友人諸君、
本当にありがとうございました。
ウィーンは、やっぱりいいね!

4月に又行くと思います。
次はもう少しゆっくりお話させて下さい。

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