奥田雅楽之一の日記です

2006/12/30 2006年・結びの日記

平成18年が終わろうとしています。
3ヶ月間の海外遠征を前に、
思い切って制作に踏み切った当ホームページ utanoichi.jp も、
開設の記念すべき年を無事に締めくくろうとしております。
自身のホームページを持つようになって一番気が付かされること、
それはいつも「感謝」です。
開設以降、全国各地で「日記、読んでます。」と声を掛けて頂くようになりました。
私自身、一人でも多くの方に御覧頂きたいという思いはございますが、
実際お読み頂 いてるという事実に直面致しますと恐縮の気持ちが募るものです。
ここにお越し下さっている皆様、本当にありがとうございます。
私で何かお力になれる事がおありでしたら、
いつでもご連絡頂ければ幸いに存じます。
お待ち申し上げております。


本年は、例年以上に多くの実を得たように思います。

日本や諸外国での経験や出会いの数々、
演奏の鍛練をする中で見出した事の一つ一つ、
そして本年唯一の作品となってしまった「譚詩曲(バラード)」の作曲、
この3点は特に強く心に残っております。

今年最後の日記は、自作「譚詩曲」についてもう一度書かせて頂きます。
12月29日、本年最後のお仕事がございました。
9月、ヨーロッパ遠征から帰国した私は数日の後、
尊敬するある方のお宅を訪ねました。
その方は有名な芸術家なのですが、
帰国の報告と、「譚詩曲」を聴いて頂くその為に自ら筝を抱え馳せ参じまし た。
たった一人の聴衆、しかしながらピンと張り詰めた空気、
謹んで自作を演奏させて頂きました。
演奏後、たった一人の聴衆から


「いい曲ね。」


と一言。


12月29日、その方の最愛であった御母様の七回忌御法要が行われました。
12月の始めに「母は筝が好きだった。あの曲を弾いてくれないか。」
とお電話を頂き、正直なところ「嬉しい。」というよりは
「こんな曲で良いのだろうか。」という心持ちでございましたが、
ここは私の中にある「音楽」を信じようと思い、お 引き受け致しました。
この曲が、このような大切な場で必要とされ、
又、今年最後の演奏がこの曲になろうとは、
この曲をウィーンでこしらえておりました頃の私にはは全く想像も出来ませんでした。
29日演奏当日は、このようなご縁を与えて下さった御母堂様へ、
又同時に私を産んでくれた両親への感謝を込めて、
夢中で演奏し ました。
ご縁というものは必然なのでしょうか、
しかしながら予測の出来ない、
本当に不思議な力であると、いつも思わされます。


幼少の頃から私は音楽が本当に好きで、
小学校ではミュージカルの主役、
中学生の時は指揮者に憧れ、
高校の頃にロックやジャズに没頭し、
その後、親愛なるベートーベンに惚れ込んで、
ヨーロッパに想いを馳せるようになった私の音楽人生。
音楽は私にとっていつも「救い」そのものでした。
この譚詩曲が、この先 救い  の価値を見出せるのかどうかは不確かですが、
この曲は私がヨーロッパで体験した感動、「涙」の結晶です。
大切にしていきたい、そう思います。


多くの出会い、そして別れもあった平成18年。
私はその全ての方々に心からの感謝を込めて、
今日もう一度「譚詩曲」を弾かせて頂きます。


「響け!届け!譚詩曲!!」


皆様、どうか良いお年をお迎え下さい。

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2006/12/25 サンタさんからの贈り物

もうすぐクリスマス。そう聞くだけでドキドキしてしまう「クリスマス好き」な私。
毎年12月に入るとクリスマスシーズンを如何に満喫するかで頭が一杯な私は、
その時期になると聴く音楽もクリスマス、部屋の模様もクリスマス、
クリスマス用の日めくりをめくっては喜び、めくってはハシャギ、
とにかくクリスマスに因 む物は網羅してしまいたい気持ちになります。
12月も数日が過ぎる頃、
満を持して我が家にもクリスマス・ツリーが登場し
庭の月桂樹には電球を巻きつけてクリスマス・イルミネーション・・・と、
一家団結で凝りに凝り切って、いよいよクリスマス当日を迎えます。
クリスマス当日は母が七面鳥を焼くのが我が家の慣習で、
最近 では全員が揃う事の少なくなった我が家もこの日ばかりは一家皆で七面鳥を囲み、
団欒のひとときを共有致します。
今年はパン職人の姉が実に一万五千円の値打ちがあるケーキを買って来て、
一体どんなケーキなのかコダワリの無い私には想像もつきませんが、
こんな体験二度と出来まいと図々しくもその分のお腹を空けておく心構 えであります。


私の許にサンタ・クロースさんが来なくなってここ十数年、
あの頃のあの晩のあのときめきを感じる事はもう無くなりましたが、
サンタ・クロースさんのお陰で今もこうして尚、
クリスマスという「感謝の日」を大切にできるのだと思っております。
サンタさんはきっとこの想いを伝えるために、
毎年こっそりプレゼントを届 けに来てくれた事に、大人になって初めて気が付きました。

今年も世界中で、あってはならない争いが起こり、多くの命が奪われてしまいました。
一人一人の心に同価値の「感謝」の想いが行き届くよう、
今日改めて、神様にお願いしようと思います。


一年に一度のクリスマス、皆様にとって素敵な一日でありますように・・・・。


※本年中にもう一度、日記を更新できればと思っております。

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2006/12/20 「学ぶ会」の活動

この一週間、広島、山口両県に遠征しておりました私は、
一昨晩遅くに東京へ帰って参りました。
広島で、あるご縁をきっかけに
未来を担う子供達を中心に勉強熱心な方々が集う機会を設け
「学ぶ会」と題してここ1、2年の内に「学びたい」という人が
一人、又一人と集まり、
少しずつ活動の成果をあげている実感がござ います。


・「学ぶ会」のお約束


1、皆が学べる環境である事 

2、堅苦しくない場である事

3、誰にでも参加出来、毎回の参加、不参加を強要しない事

4、お金を掛けない事

5、楽しい事


そう約束して始まったこの活動は、
少子化問題や邦楽全般に関心度「薄」の声が高まる今だからこそ始めなければならない活動で、
今回もそうであったように、
普段なかなかお知り合いになれない方々と直接お話させて頂けます事も、
私がここ近年深刻に考えていた「立場分け隔て無く交流を持ちたい」の問題を解消する上で
確かな第一歩を踏んでおり、仮にこの先参加者が増減があろうとも、
時の経過に伴って私の身辺の仕事が増えようとも、
私を必要として下さる方が在る限り続けて参りたい大切な活動と思っております。
誰にでも参加出来るという条件は簡単そうで簡単でない事も無論承知ですが、
本当に誰にでも参加出来る場所になっておりますし 、
参加費も毎回可能な限り抑えております。
参加された方々は皆すぐに打ち解けて、
笑いと涙の絶えない、人間味溢れる素晴らしい雰囲気です。
こういう場所がもっともっと増えていくと良いと私は思います。

参加ご希望の気持ちがおありの方は、
要相談ではございますが、私めに遠慮なく御一報を下さいませ。
気軽にご連絡下さい。お待ちしております。

今回学ぶ会に参加下さった皆様へ:
この度は初めてお目に掛かった方も多く、
色々とお話も出来、ご飯を一緒に食べたり、皆でお茶をしたりと、
普段では有難い光栄な時間が持てました。
皆様は「勉強になった」と言って下さいましたが、それは「私の方こそ」なのです。
これからも皆様が望んで下さる限り精一杯に努めて参 りますので、
いつも貴重なお時間を割いて下さり恐縮ですが、
今後も引き続きお世話になります。


「学ぶ会」のひとときを終えた私は、
来年2月、山口県岩国市で催される演奏会の下稽古に立ち会う為、同市に参りました。
現地では大勢の方が沢山の楽器を広げて私を待っていて下さり、
精一杯の演奏を聴かせて下さいました。
とても嬉しかったです。
岩国でお世話になった皆様、来年の演奏会が素晴らしい音楽の空間にな るよう、
残り一ヶ月と少し、皆で協力し、支え合って下さい。
私も、それから祖母の家元も、
皆様にお会いできるのを楽しみに、岩国へ参ります。
お騒がせ致しますが、よろしくお願いします。

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2006/12/11 中島雅楽之都・物語

その昔、中島雅楽之都という人がいた。 中国人ではない。
なかしま・うたしと と読む。最初は「うたのいち」と読ませていたが、
後年は「うたしと」と改名した。
いずれにせよ、何と読み難い名前であろうか。

この読み難い名を名乗って、たった一人、
長野の地で生田流筝曲の門を構えた青年がいた。
時、1913年(大正2年)この時、青年17歳。そう。
その青年こそが中島雅楽之都なのであった。
ちなみに私の曾祖父、つまりひいお爺さんに当たる人でもある。

中島雅楽之都、実は凄い人なのである。
宮城道雄氏とは同年代の親友であったが、とにかくあの時代は盲人の名演奏家が多く、
雅楽之都も修行のは盲人の中に混ざって精進する数少ない晴眼者の一人であった。
それ故に、当時の雅楽之都の活動は、
今日の筝曲界に特別な影響を与えているといえる。
まず、楽譜の制作。それから、晴眼者への普及活動、それも全国規模である。
今では新幹線、飛行機などあるが、当時は容易な事ではなかったはずである。

そのお陰で、我々は今日安心して勉強ができる。
楽譜は、大変便利である。
ありがとうひいじいさん、と、私もたまに心の中で感謝申し上げる。

雅楽之都は人格者であったと、当人を知る人は皆口を揃えて言う。
その人柄がよくわかる、逸話を古い先輩から色々と聞く。

戦争があった。東京大空襲、全国各地も次々に焼け、
正派の会員のみならず全国の友人達が雅楽之都を頼って上京してきた。
食料にも、居場所にも限度があった。
しかし雅楽之都は、体中に傷を負って、
瞳いっぱいに涙を溜めて玄関口にたたずむ友人や弟子を、どんな時も笑顔で迎えた。
当時の話を、正派の古い先生は私に「あなたの、曾祖父さまは・・・」と、
涙ながらに語って下さる。
本当に辛い時代であった。

縁あって、雅楽之都は28歳で結婚をし愛娘を3人授かったが、
幼くして2人を亡くし、唯一成長したその娘こそが、中島靖子である。

辛く、厳しい人生は83年で幕を閉じた。1979年8月17日。
私が生まれた、たった2ヶ月後の事である。
たった2ヶ月、雅楽之都と私は一緒にいた訳であるが、
83年の内の2ヶ月であると考えると、身震いせずにはいられない。

雅楽之都、絶筆は「智之」という字であった。
これは私の命名の書である。私も以前、それを拝見したが、
智之の「之」の最後の払いの箇所が、かすれてしまっている。
祖母の靖子曰く、
「父に、あの字を最後力強く払う力は、もうなかった」

何ということか・・。私の心に、熱いものが込み上げた。



「中島雅楽之都先生、親愛なるひいお爺さま、今、何処で何をしていらっしゃるのですか。
 どうか、私の祖母中島靖子を、これからも見守っていて下さい、
 お願いします。私は、貴方様の血を継ぐ者として恥ずかしくない様、
 今後も引き続き厳しい精進をします。
 いつか、天国か何処かで会ってお話できるその日を、心待ちにしてます。」

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2006/12/1 音楽と仕事の関係

私11月29日水曜日、「唯是震一作品演奏会」と題する毎年恒例の企画が、
四ツ谷区民ホールで無事に開催されました。
この演奏会が催されるにあたって、演奏者の方々は作曲者立会いの下、
本番当日に向けて厳しい稽古を重ねて参ります。
私は今回は出演しなかったのですが、
祖母である家元が、私に「貴方も練習日には出来るだけ同席して、
唯是先生の指導方法を側で聞かせて頂きなさい」と言って下さいましたので、
有難いことと思いました。
実際、不手際な私は、練習日のほとんどに都合がつかず大方を同席させて頂けなかったのですが、
それでも見学させて頂いた際には、
祖父の口から発せられる一つ一つの言葉を噛み締めるように拝聴致しました。

祖母は、「一対一の稽古と、合奏群の指導方法とは、根本的に違う」と常々に申しておられますが、
中島靖子は、 演奏活動を開始して未だ間もない早い時期から当時の家元であった
父君の中島雅楽之都氏に合奏団の必要性を申し出て、
家元の「金は出すが口は出さん」(名台詞!)という心強い後押しの下、
正派合奏団結成に至ったと聞いております。
祖母は再三に亘って、この合奏団の仕事の大切さと責任の大きさを説いており、
合奏団の活動は、昨今の正派邦楽会を支える大きな柱の一本を担うようになったのだなと、
私も感じております。


私は元来、芸術全般の好みが古典的な作品に傾斜しており、
自身が志す地歌・筝曲も伝統的なスタイルのものばかりを好み、
「好き嫌いを言っている段階ではない」とよく師匠に怒られたものですが、
芸術に関しては異常な程に潔癖な己の心には嘘がつけず、
今現在も尚、偏りがございます。
今後の為にも、凝り固まった考え方には今この場で改めて反省をし、
もう少し寛大な心を持った大人になりたいと思います。


音楽を専門職にすると、
好き嫌いを言ってはいられない状況に遭遇する場面が多々ございます。
それはおそらく、私の師である祖父母も同じであった(ひょっとすると今も尚)と思います。
大切なのは、貫くべき信念と、改めるべき偏見の境界線を見極め、
自分自身がそれを把握しておく事ではないでしょうか。
密接な人間関係と、様々な流儀が交錯するようにして成り立つこの特殊な業界の中で、
音楽という形の無いものを志していくことは、一筋縄では参りません。
音楽を愛し続けられる事だけは自由で、
且つそれこそが唯一自分を保っていられる方法なのかもしれません。
私も貧弱な自分の気持ちを保っていられる為に、
ドイツ過ごす時間を大切にしておりますが、
ワガママばかりを言っていてはただの責任免れですので、
家元の仕事、唯是震一の仕事の全てを、
まずは吸収する覚悟で精進していきたいと思っております。

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2006/11/24 血液型

私はB型。
血液型と性格について、医学的には双方の関連性を立証できないのだと
以前何かの本で読んだ事がありますが、
心配性な私は、自分自身B型であるという事を意識することで、
B型は自己中心的であるだとか、マイペースであるだとかいう風説を、
幾分気にせざるを得無い気持ちになります。

私の父はO型。
母がB型で、姉はO型、妹がB型。
この時点で、もはや性格と血液型の関係を論ずるまでもなく、
姉は父の温厚で真面目な性格を受け継いでいるのは明白であり、
私や妹の麗(うらら)は母の臨機応変な物の考え方を受け継いでいることは一目瞭然、
どうやらここには医学の理屈を越えた遺伝の不思議が隠されているのかなと、
私は勝手に興奮しています。
私のこのB型のルーツは、辿っていくと、
必然的に母の血縁を遡らなければならないのですが、
実は祖父の震一氏がB型で、
今、改めてよく考えてみると母と祖父の性格は非常に似ている気が致します。
ちなみに祖母の靖子氏はO型。母の妹である叔母の知子氏はB型。

このようにして整理してみると、
我が親族は0型とB型のいずれかに偏っていることの気が付かされます。
今、一般的な傾向は無視をさせて頂くとして、
私の親族限定で血液型別に性格判断すると以下のようになります。


0型(祖母、父、姉など)・・・生活のテンポがゆったりしている。
コツコツと、計画的に物事を取り組む。
三日坊主にならない。冗談(ダジャレ)を言わない。優しい。温厚。


B型(祖父、母、叔母、妹など)・・・せっかちである。
追い込まれて、力を発揮する。
冗談(ダジャレ)やモノマネが好きである。
見掛けによらず、思いやりが強い。ちょっと怒りっぽい。


多少私の解釈に客観性が欠けているかもしれませんが、
遠からず以上のように分類されています。
私は祖母に物の考え方、人との接し方の教育をされてきたので
最近は祖母の考えを少しずつ理解出来るようになって参りましたが、
基本的なものの感じ方や捉え方は同属である祖父の感覚に近い気が致します。
つまり、本能の部分でB型属は皆類似している気がするのです。


私はたまに

「個性の強い我が一族は、O型人間様のお陰で、成り立っているような気がする」

と感じる事があります。


そう思うのは、果たして私だけでしょうか。

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2006/11/15 photo

当ホームページにお越し下さっている皆々様に、
毎週更新している私の大して面白くも無い日記ばかりお読み頂くのにもそろそろ気が引けるので、
今後は私に関連する写真を随時掲載していく事に致しました。
私は普段、デジカメ(デジタル・カメラ)等を持ち歩く習慣はないのですが、
今後は何処へ行くのにも”マイ・カメラ”首にぶら下げて近況をご報告させて頂ければ、
と願っております。

この夏ヨーロッパへ行っていた際、不覚にも、
私はカメラを持たずに各国を周っておりましたので、
手元にありますヨーロッパ遠征の写真が意外に少なく、
大変勿体無い事をしたものだなと今更ながら後悔しております。
旅の思い出を形に残しておく事は、時が経てば経つ程、その大切さが際立つものです。


来年も、どうやらヨーロッパに行く事ができそうです。
今年のように3ヶ月もの時間を確保するのはもう既に不可能なのですが、
何回かに分けて、ドイツ、オーストリアの辺りへ参りたいなと思っております。
ヨーロッパ在住の皆様、又色々とお世話になってしまうかと思いますが、
よろしくお願いします。


先日、祖父母達がアメリカ旅行から帰って参りました。
旧友との再会には感激した様子で、私もいずれはそんな体験をするのかな、と想像しながら、
その他色々と楽しいお土産を聞かせてもらいました。
実は私なりに、祖父母の年齢を考えても、多忙ゆえの疲労蓄積を考えても、ここにきての海外旅行、
果たして何事も無く元気に帰国してくれるものかと心配していたのですが、
帰国後の晴れやかなお顔を拝見して、心底安堵致しました。旅先からの祖母の手紙には、
「旅に出ると、今 の大切さを身に沁みて感じます」と書いてありました。
素敵な人だな、と、孫ながらに感じております。


兎にも角にも、今後、色々な写真を掲載して参りたいと思っております。
ご意見ご感想、引き続きお待ち申し上げております。

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2006/11/8 三味線を好きになろう

来年、正派公刊楽譜として 三味線手ほどき小曲集(仮題) なるものを
出版する予定になっております。
先日はその打ち合わせを致しまして、
第一集は片ページ分の小品10曲程度と両ページ分を使っての
やや小品5曲を集録する事に決まりました。
調子は全て三下がりです。


私は地方遠征に参りますと、三味線(三弦)の事に関する御質問を多く頂きます。
三味線という楽器はまず何より、魅力的で、完成されていて、
他には無い美しい音色を持つ、日本を代表する伝統楽器です。
ただその分に見合った奥の深さがあり、
学ぶものは強い熱意と修練を積んでいかねば、
なかなか三味線のその片鱗に触れることは出来ないのかもしれません。
と、言い切ってしまうと三味線に対する過分な遠慮を煽る結果になってしまうので、
僭越ながら、以下三つの要点に絞って三味線の魅力を紹介させて頂きます。


三味線はまず、サワリです。
一の弦に施されるビーンという余韻がなるべく長く伸びるように工夫して下さい。
工夫の仕方は色々ございますが、
不調なサワリの状態は 付き過ぎ か 足りない かのどちらかです。
そのどちらかによって、処置の方法が全く異なるので、その見極め方は大変重要です。
基本的に長期間放置されていたり、
長年調整に出していない三味線(多くの方はこちらに属すると思います)は
前者の付き過ぎ状態ですので、
サワリのミゾの箇所にちり紙レベルの薄紙を一枚か二枚程度はさんでみると、
サワリの音は伸びると思います。
サワリは、少々付き足りない状態から
「押しザワリ」(糸を押しながらサワリを付けていく)という方法で
サワリを最良の状態(最長の余韻)に改善していきます。
サワリが付いた三味線は、二や三の糸の開放弦をテンと弾くだけで、
ビンと楽器が振動してくれます。
良いサワリを得るためには、
楽器の理屈を知ることと、少々の根気が必要でしょう。

次に撥(バチ)です。
撥の持ち方は人それぞれ、流儀によってそれぞれであることは承知しておりますが、
基本的に、まず、中指が撥の重心にくる事。
そうしないと、撥の重みが弦に伝わりません。
そして撥先の二等辺三角形の先で、糸を捉える事。
撥先であればあるほど、音はシャープになり、無駄な動きも少なくなると思います。
弾いている時に、
撥を持った右手の小指と三味線の皮との距離が離れすぎないように気をつけて下さい。

三つ目は左手です。
まず、サワリが物理的に反応するツボ、
本調子でいうとニの糸の開放弦、七のツボ、三の糸の開放弦および、
7のツボ、1の甲のツボ等は、サワリが振動するという事を前提の下に弾いて下さい。
サワリをきちんと付け、三本の糸をサワリを感じながらきっちり調弦出来れば、
以上にご紹介したツボは、多少耳に自信が無い方でも、
物理的に振動を感じることで、ツボは合うと思います。


かなり要約して申し上げました以上の事は、
あくまで三味線専門家の先生方以外の方々を対象にしたものですので、
参考までに試してみて下さい。


一昨日、私は岩手県は釜石市へ遠征に参りました。
日帰りするには少々遠い場所でございましたが、
秋の装いに色付き始めている山々の絶景には、どこか心救われるものがございました。
澄み渡る夜空に輝く満月を目に焼き付ける必死の思いで、現地を後に致しました。

こんな私を待っていて下さった釜石の方々、
東京では決して得ることの出来ない大切なものを感じさせて頂きました。
ありがとうございました。


※追伸 現在、ホームページ上に掲載する写真を揃えております。
掲載致しました折には、お手柔らかに、ご笑覧下さいませ。

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2006/10/31 譚詩曲(バラード)

私祖父のアイデアにより、新曲の名前が決定しましたので、ご報告申し上げます。

バラード【(フランス)ballade】大辞泉より引用
1 中世の欧州で盛んに作られた定型詩。
3詩節と1反歌により構成され、それぞれ同一行の繰り返しで終わる。譚詩(たんし)。


2 素朴な言葉でうたった短い物語詩。譚歌(たんか)。


3 物語詩的な内容をもつ声楽曲や器楽曲。譚詩曲(たんしきょく)。譚歌。

という訳で、曲名は譚詩曲と書いてバラードと読ませる事になりました。
来年の一月に再演する予定になっております。
実はこの曲、まだ楽譜にもしておらず、
私の不審な脳ミソに記憶されているだけですので、
近々誰かに手伝ってもらいながら楽譜にしておこうと思います。
一人でも沢山の方々に聴いて頂けます事、心より願っております。

先週末は長野県諏訪市で盛大な演奏会がございました。
祖母と母と私の3人で
宮城道雄作曲の「落ち葉の踊り」(筝・三味線・十七弦)という曲を弾かせて頂きました。
本番中、こんなに哀しい曲だったかな・・・と感じながら私は筝を奏しておりました。
宮城先生の繊細な感受性が、
何とも言い難い秋の情緒を美しく比喩なさっているのだと思います。
今回下合わせの合間に「ここの中間部分、私は悲しく弾きたいの」という祖母の言葉は、
私の耳にまだ残っております。

その祖母は、「昔の恩人に会っておきたい」との事で、
祖父と共に昨日アメリカに飛んで行ってしまいました。
言ってしまえば、いよいよ、スーパーおじいちゃん・おばあちゃんであると思います。
そしてやや疲れ気味の私は家元宅でお留守番。
コタツに入りながらみかんを食べつつ、今こうして日記を書いております。

ヨーロッパ滞在中もそうでしたが、一人きりで過ごしておりますと、
どういう訳か、曲を作りたくなります。
一人きりの空間には言葉に出来ない想いを表現したくなる緊張感が生まれるということなのでしょうか。
譚詩曲(バラード)も、ごくたまにですが、自身の稽古の合間に弾いてみます。
回帰される想いはヨーロッパ滞在の日々、数々の思い出に対するものです。
ヨーロッパでお世話になった友人諸君、元気で頑張っておられますか。
私はこの通りの相変わらずです。
日本はいよいよ秋も深まり、色付く紅葉の季節です。
遠く離れた諸国にお住まいであっても、
どうか日本古来の美しさを、いつも心のどこかに求め、感じていて下さい。
日本の音、必ず又そちらへ持って参ります。必ず参ります。待っていて下さい。

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2006/10/24 二匹の黒猫

私に物心がついた頃から我が家には2匹の黒猫がいて、
その名をブラッキー(オス)とシルビー(メス)といいました。
私が2歳の頃に我が家へやってきたこの2匹の黒猫は、
兄妹で、全く同じ顔をした父と母から生まれました。
父親の名はドン。ドンは猫とは思えぬほどに体が大きく、大袈裟に言えば黒豹で、
特技は壁に爪を立てて90度真上に駆け上がって行く事でした。
幼少の私に、ドンはとても恐い存在でした。
母親の名はファン。ファンは大変優しい性格で、ドンに比すれば小さい体でしたが、
それでも体格は良く、結果的に一番長く(20年も)生きた化け猫でした。
ブラッキーとシルビーは生まれてすぐドンとファンの飼われているお宅から
譲り受ける形で我が家の飼い猫となり、
我が家のルールに従って生活する事になってしまいました。
私の両親は綺麗好きの分類なので、猫達には少々過酷な日常であったかもしれませんが、
程良い緊張感の中、家族の一員として楽しい毎日を送っているように見えました。
ブラッキーは元々、骨が弱く、言ってしまえば骨粗鬆症というやつで、
高い所から飛び降りたり、又逆に飛び上がったりする事の出来ない猫でしたが、
それを補って余りある気の強さと、頭の良い賢い猫で、
運動神経抜群のシルビーや、我が家にその後やって来た犬との喧嘩では、負け知らずでした。
シルビーは、所狭しと家中をピョンピョン飛び跳ねておりましたが、
気持ちが弱く、人見知りの激しい猫で、おまけに食欲が止まらず、
晩年は丸々と太ってしまい、
ある時は宅急便のお兄さんに 「狸ですか?」 と間違われ、
「猫です!」と母が怒りの訂正をするような事件も引き起こし、
何かと我が家のトラブルメイカーでしたが、皆に愛される可愛いメス猫でした。

先に亡くなったのはブラッキーでした。
16歳の夏に体調を崩し、点滴を打たせて回復を信じた我々のその判断が裏目に出て、
ブラッキーは最後、とっても苦しみました。
彼が危険な状態の時にたまたま両親が留守だったので、
高校生だった私は彼を抱いて獣医に駆け込み、
「様子が変なんです」と涙ながらに言葉を発し、
獣医の診断を祈る想いで見守りました。
獣医さんの「もう、このまま逝かせてあげたらどうですか?」の言葉に、
初めて気付かされた飼い主本位の延命治療に、深く、深く後悔しました。
結局、苦しむブラッキーを一晩見守りながら、
翌日、皆が目を離している瞬間を選んで、彼は天国へ逝ってしまいました。

翌年、時期を同じくして今度はシルビーが体調を崩したのですが、
両親は獣医に連れて行きませんでした。
何故?と詰め寄る私に、
父は「一年前の失敗を、繰り返してはいけないよ」と言いました。
その翌日から私は3日程旅行で留守にしたのですが、
帰宅すると、もうシルビーはいませんでした。
同時に、17年間あった猫のトイレ、カゴ、マット、それらが片付けられていて、
玄関先で私は肩を落としました。


私はそれ以来、もう二度とペットは飼わない、と心に決めました。
しかしながら皮肉にも、高校生の妹の麗(うらら)は尋常ならぬ動物好きで、
我が家の周りにはいつの間にか餌付けをした野良猫が徘徊しており、
家の中には麗が捕まえてきた大きな亀と、
学校の生物の先生から貰ってきたウーパールーパーがおります。
ちなみに私がこの家を出たら、私の部屋はイグアナの部屋になるらしいです。

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2006/10/17 恩師

恩師の事を、書かせて頂こうと思います。


私の恩師、森雄士(もりゆうじ)先生。
森先生は「春の海」の作曲などで知られる天才・宮城道雄の直弟子。
のみならず、宮城道雄先生のお側で演奏をなさったり、
作曲や楽譜制作のお手伝いをなさったりと、公私に亘って先生に尽くされたという、
今日にあっては大変貴重な方であります。
森先生は宮城先生と同じくお眼が不自由でいらっしゃるにもかかわらず、
幼少から宮城先生の下で厳しい修行を積まれ、
素晴らしい演奏家にお育ちになり、
宮城師の音の動き(心の動き)をいつも側で感じていらっしゃった、
宮城先生にとっては大切な大切なお弟子さん、森雄士君。
であったと私は感じております。


そんな森先生との出会いは私が幼少の頃にまで遡りますが、
祖父唯是震一と森雄士先生は
お互いが宮城先生のお宅に通っていた頃からの(もうかれこれ60年以上の)
お友達ということですので、
祖父とのお仕事は勿論、
よく一緒にお食事などをさせて頂いた先生のお姿は幼心に記憶しております。


それから十数年の月日が経ちました。
私は、憧れの森先生の許へ

「通わせて頂きたい」

そう祖父に申し出たところ、
祖父は信頼している森先生の所であれば・・・と
さっそく電話を掛けて事情を説明してもらい、
念願叶って森先生の許へ通わせて頂ける事になりました。
大きな期待を胸に臨みました森先生のお稽古。
正直に申しまして、森先生から頂いた教えの質とその量は私の想像を遥かに越えたもので、
私は森先生の教えを通し、この世界の厳しさと奥深さ、
それから自分の未熟さに気付せて頂きました。
森先生の教えは、今現在も尚、頂いております。


音楽と、森先生と、自分。
三つの魂が真剣に向き合う空気は、
まるで宮城道雄先生が目の前にいらっしゃるかのような錯覚さえするほど、
張り詰めた空気になります。
箏、三味線、十七弦、胡弓を自由自在に操る森先生は、
古典から宮城道雄作品、幅広いレパートリーのその全ての音、
一つ一つに、感動(涙)が宿っております。
名人森雄士先生との合奏、音楽談義、最愛の奥様とのお茶の時間にご一緒させて頂く時間も、
その全てが、私の大切な宝物です。


宮城先生がお亡くなりになって50年が経ちました。
宮城先生の御命日に近く、
森先生ご夫妻と私の3人で宮城先生のお墓参りをさせて頂きました。


「宮城先生の演奏は、いつも悲しそうだった」

この時森先生に言われたこの言葉が、私の心から、どうしても離れません。


森先生、いつまでも、お元気でいらして下さい、
そして今日も明日も10年後も、幸せな毎日をお過ごし下さい。
これからもずっとずっと、先生のお側へ通わせて下さい。
森先生、本当に感謝しています。

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2006/10/6 舞台への備え

舞台で演奏をさせて頂く為には、
体調管理を始めとする色々な備えが必要であると思います。
私達は地方で演奏させて頂く機会がよくございますが、
通常より乾燥したホテルの一室で過ごす前夜は、
歌を歌う都合上、声を嗄らさない為の気配りが必要です。
私の場合は、浴室の扉を開け放して浴槽に熱湯をためておいたり、
タオルを濡らして枕元に置いたり、小まめに喉を潤したり、
マスクをして就寝したり・・・などなど、
少ない知恵を絞っております。
祖母は生まれついて声帯があまり強くない理由で、
舞台前は首にハンカチを巻いて冷やさないようにしていたり、
のど飴を常備していたり、テレビやラジオ等の収録私の場合は、
咳止めの注射を打ったりもしておられるようです。
いつだったか、遠征先のホテルで祖父の部屋に届け物をした時、
浴室から発するドライアイスの煙の如き湯気が部屋中に立ち込めていたのを思い出します。
祖父と私は、発想が似ているようなのですが、思い切りが違います。


目下、私の一番の悩みは爪(箏の爪ではなく、自分の爪)へのケアです。
爪は、三味線や胡弓を弾く上では必要不可欠なものでございます。
私も、私の爪が最良のコンディションで本番を迎えるために、
舞台の当日から逆算して色々な工夫を凝らします。
ここ数年の私の不正確な調査によると、
爪には強い(硬い、厚い)、弱い(軟らかい、薄い)等の個人差があるようなのですが、
残念ながら私は後者の弱い部類に属す気がしています。
調査の中途、
「頑張って指で弾いているうちに、指の肉が硬くなり、爪のようになってくるもんだよ」
という方もいらっしゃいました。
それは名案だということで、さっそく指で弾く稽古を心掛けましたが、
私の指は三味線を弾いていても箏のキツく締まった糸を押していても、
皮膚がまったく硬くならない体質なのか、軟らかい指のままに内出血を起こし、
弾くどころでは無くなってきたので、ひとまずその方法は中断いたしました。
指が硬くなる・・体質だけの問題でなく、
そこに至るまでには並々ならぬ修行と覚悟が必要なのだと思います。

爪を保護する為に、皆様がよくお使いになる道具といて、
アロンアルファ、セロ・テープ、蚕の繭、マニキュアなどをよく耳にします。
私は箏を弾いている最中(厳密には押し手という作業の時)に
手が滑って爪がめくれるというアクシデントが近年続き、
親しい友人の女性にそれを相談したところ、
これが良いのではないかと買って来てくれたマニキュアが、私の爪ととても合性が良く、
普段は三味線で使う左手の爪3つ(人差し指、中指、薬指)にそれを塗っております。
キラキラと光っているので、少し怪しいのでは・・
という周囲のご忠告もございますが、
この際見た目を気にしている場合ではございませんので、
今、そのマニキュアは必需品です。


以上2点につき、私は今現在尚、より良いアイデアを模索中です。
何か良い案がございましたら、知恵をお分け下さい。

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2006/9/28 正派邦楽会の将来

私は、正派邦楽会という日本伝統音楽の団体に属している訳ですが、
現在私の祖母がリーダーを務めるこの大きな音楽組織の将来を、
私は私なりに真剣に考えております。
大変有難い事に、祖母は今現在も尚、現役バリバリの演奏家として、
又、組織の長として活動しております。
その事は私は勿論ですが、私の一族、そして正派の会員でいらっしゃる皆々様、
それ以外の多くの方々に大きな勇気と希望を与え続けている素晴らしい、
幸福な事であると、思っております。
そしてそんな今だからこそ、この立場のこの私がしなければならない事も沢山あります。
私のするべき事は一にもニにも芸の鍛錬ですが、
今回、その事はちょっと置いておいて、正派邦楽会の今後について、
少し触れておきたいと思います。


私は、基本的に、一人間としてのきっちりとした礼儀を怠らなければ、
音楽をする事、感じる事に立場や地位というものは、全く不要であると思っております。
私は人に注目して頂ける場所に命を授かり、
その事によって今まで沢山の方々にどれ程多くのご恩を頂いたかわかりませんが、
少なくとも、そんな私を雲の上の遠い存在のように思わせてしまったり、
近寄り難い人・・といった感情を持たせてしまったりという事は、
私自身の不足と、組織の在り方がそうさせてしまっている、
悲し結果であると思っております。
音楽は、先入観や偏見を持つことなく、人が皆平等に感じられるからこそ、
その本来の価値が見出されるものなのであります。
私は、正派という組織が音楽の為にある以上、
正派の会員である大師範の先生方から、
若者、子供に至るまでの一人一人が自由に、のびのびと音楽を感じられる、
そういった環境にこの組織を整えて参りたい、
会員の皆様には心からそうお誓い申し上げたいと思います。


少し現実的な話になりますが、
今私が演奏活動以外に取り組んでおります正派邦楽会のお仕事は、
月に一度発行される機関紙「楽道」の中において不定期連載となっております
 名人を聞く というコーナーの取材。それからもう一つ、
三味線の為の、数冊に亘る小曲集の楽譜発行という任務がございます。
後者の実現はもう少し先の話になりそうですが、
これは古典色の薄く見られがちな正派にとっては、とても大切な大切な第一歩です。
発行が実現しました折には、私もその為の時間を設けて全国各地を周り、
その楽譜等を通して三味線の素晴らしさと奥深さをお伝えするお手伝いが出来れば・・・と、
強く願っております。
皆々様のご協力あってこその、私の望みでございます。
どうか、皆々様のご支援、よろしくお願いを申し上げます。


私は正派二代目家元・中島靖子から、多くを教わり、多くを学びました。
同時に、その教えの数々を、真っ直ぐに信じております。
一人の人間として、孫として、弟子として、祖母の意志を、
しっかりと受け継いで参りたいと思っております。


皆様のご意見、ご指導、引き続きお待ち申し上げております。

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2006/9/20 新曲の命名

ヨーロッパ遠征より帰国してから、
あっという間に2週間の日々一刻を過ごし、蒸し暑さに翻弄されながらも、
ここ日本で充実した活動をさせて頂いていると思っております。


当ホームページのニュースとしても掲載させて頂いておりますが、
私はヨーロッパ滞在中に筝の独奏曲を作曲し、
その曲想をヨーロッパで目にした在る壁画に得た理由から、
仮題として 哀しい壁画の叫び と称しております。
9月9日にその曲を発表させていただきましたその折に御来場下さった方々、
遅ればせながらこの場を借りて御礼を申し上げます。
お忙しい中を有難うございました。
同じくあの日あの時あの場所にご臨席を賜った祖父の唯是震一師は、
私の新しい作品に少なからずのご理解を示して下さり(光栄、且つ有難い事であります)、
祖父は

「この曲の名前は私が考える」

と仰っておられるので、
私は今現在その命名の知らせをお待ちしているところでございます。


9月18日、私は札幌で行われた大きな演奏会に賛助として出演させて頂きました。
正派若菜会創立85周年 という名目の下行われたこの大演奏会は、
多くの出演者、多くの裏方様、そ
して何より多くのお客様の支えのお陰様で
本当に素晴らしい演奏会にすることが出来ました。
私も自作曲の「百鬼夜行」他4曲に出演させて頂き、
お力になれたかどうかは少々不安ですが、精一杯の演奏をさせて頂きました。
貴重な勉強の機会を与えて下さった主催の先生方に
心からの感謝と御礼を申し上げます。札幌の先生方、
若菜会にご出演ならびにご協力下さったスタッフの皆々様、
有難うございました。
多くを学ばせて頂きました。


私の周りには、未熟な私の成長を見守って下さる先生方が全国各地、沢山いらっしゃいます。
私がそういった先生方々への御恩をお返しさせて頂く為には、
一にも二にも私自身が厳しい修行に励み、
祖母中島靖子、祖父唯是震一の教えをしっかりと守り、
音楽家としても、一人間としても
さらなる精進に精進を積み重ねる事以外には無いものと自負しております。


こんな未熟な私ではございますが、
今後とも厳しいご指導を心よりお願い申し上ております。


会が続きました関係上、日記更新が遅れました事、お詫び申し上げます。
次回は期日までに綴らせて頂きます(目標)。

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2006/9/11 帰国

9月5日、定刻の午前8時20分、私は無事に成田国際空港に到着致しました。
3ヶ月にも及んだ今回のヨーロッパ遠征は、
今後の私の人生において大きな影響を与えるであろう、
非常に内容の濃い、充実した時間であったと思っております。
ヨーロッパ各地でお世話になった方々、
友人知人方々に心からの ありがとう をお伝えしたい、
今遠く離れた日本から、そう思っております。
今後のヨーロッパ活動は現時点で未定ではございますが、
毎年、時間を取って通い続けたいものと思っております。


9月9日には横浜美術館で企画された催し物の中で私の新作も発表させて頂くことができました。
恐縮にも、その時は両師匠(祖父母)をはじめとする沢山の諸先生方のご来場を賜り、
何と申しましょうか、ヨーロッパで体験した数々の熱い想いを、
幼少からお世話になった方々の前で精一杯に表現させて頂き、
何とも言えぬ熱いものが込み上げて参りました。
今日、祖父に会う機会があり、新曲や演奏についてのご感想を頂戴致しました。
祖父は若かりし頃の自分と今の私(孫)とが重なるようで、
遠くの自分を見つめるように、私に色々助言をして下さいます。
祖母からの助言もそうですが、そういった言葉の一つ一つは私の宝物です。


今しばらくは 芸術の秋 ということで、
何かと時間に追われる有難くもどこか悲しい日々が続きますが、
健康、勉強、プライベートの諸々、自己の管理は自己の責任で果たして参ります。
舞台では一回一回が勝負、言い訳は通用しない厳しい世界ですので、
師の背中が示してくれた如く、
勉強時間の確保と緊張感の維持などは気を抜かないよう心掛けて参ります。


近々に、当ホームページにてヨーロッパ滞在時の写真等、公開できればと考えております。

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2006/9/4 トリノ・プラハ・ライプツィヒ・ドレスデン

ヨーロッパから、最後の日記になります。

皆様から続々とご感想を頂戴しており、とても有難く思っております、
今後共ご意見ご感想等、引き続きお待ち申し上げております。


滞在最後の2週間、私はヨーロッパの色々な都市を転々と致しました。
コンサートの為にオーストリアのザルツブルクや、イタリアのトリノにも参りました。
ザルツブルクを訪れたのは今回で2度目だったのですが、
その地で演奏をさせて頂くのは初めてという事で、
現地でお世話をして下さった方のご案内と行き届いたお心遣いの下、
不自由なくコンサートを終える事ができました。
素晴らしい街と景色、
そして素晴らしい時間に心が清められる思が致しました。

初めて訪れたトリノは海外で活躍するお箏奏者のご紹介が元で頂いたご縁だったのですが、
歴史のあるお城の中庭に設けられた野外ステージに、超満員の聴衆(驚きました・・・)、
とても緊張感のある雰囲気の中で、
私の、箏・三味線の独演会を開催させて頂けました。
海外の演奏は、基本的にプログラムを自分で組まなければなりません。
その時は70分という持ち時間を頂いたのですが、
場所と音楽の種類の相性とを色々と私なりに悩み貫いた結果、
友人のバイオリニストをドイツから呼び寄せ、
バッハのアリア(バイオリン・ソロ)や
宮城道雄先生の春の海(箏・バイオリン)などを織り交ぜながら
西洋音楽との対比を軸にプログラムを組み、
日本の古典音楽の魅力をより感じて頂けるよう工夫を凝らしてみました。
それも功を奏したのでしょうか、ものすごい熱気の中で、
私も、友人も、それからお客様も
最後まで手に汗握る緊張感は途切れる事がありませんでした。

演奏終了のその時、いつもの通り舞台上でお辞儀をしたのですが、
私は、生まれてこの方体験したことの無いタイプの歓声と拍手を頂きました。ブ
ラボー!と言われたのも初めての事でしたので、思わず舞台上で右往左往致しました。
ステージ慣れしている友人に指示されるがままに、
何度もステージの上と下を行き来しているうちに、
私は舞台の上で遠く離れている日本の師匠に思わず手を合わせてしまいました。
あの瞬間、私の心は感謝の想いに満たされておりました。
私は、私一人では何も出来ない・・・
遠く離れた海外に居るとき程、この気持ちを強く感じるのが本当に不思議です。
多少自慢話のようになってしまいましたが、
私にとりましては又とない貴重な機会でございましたので、
慎んで綴らせて頂きました。

滞在最後の一週間、
今回予定されていたお仕事を全て終えた私はゆったりと、
ドイツで余暇を過ごす事を決めました。
ウィーンから電車でチェコに入り、
ドイツのドレスデン、ライプツィヒへと入っていきました。
国境を渡る頃になると怖い顔をした二人組の男の人が来て、
ガチャン!と私のパスポートに印を押して行きます。
日本人にはなかなか実感の湧かない事であります。
ドイツでは、音楽家の活躍した教会や、お墓などに参りました。
バッハとも、満を持して初のご対面でした。
私が10年前からの切望であった
リヒャルト・ワーグナーのオペラをドイツで鑑賞するという念願も叶い、
この想い、何と申しましょうか、幸せが心の中一杯に広がっております。

今、私はこれから家路につきます。
こちらで出会った方々の、別れ際に見た熱くなった目頭、
その熱い熱い想いを勇気に、帰国後は心を鬼にして精進を致します。


ありがとうございました。

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2006/8/30 唯是震一

唯是震一(ゆいぜしんいち)。
耳にするたび、背筋を伸ばさねばならぬといった様な、私にとっての唯是震一という存在。
これは、私の祖父の名前です。
祖父は、身近にいるこの私ですら、
底力の底が見えない程に強く、厳しい人、という印象です。
’全国を駆ける’。
この文句がよく似合う祖父はいつも小走りに、毎日西へ東へ、駆け巡っておられます。
睡眠時間は少なく、朝早くから夜遅くまで
何かに打ち込んでいる様子が窺える私の祖父その人は、
兎にも角にも活力に満ち溢れたお方で、
一体全体、通常のホモ・サピエンスの
何倍分くらいの人生を生きていらっしゃるのであろうかと、
真剣に考えてしまう、孫の私でございます。

祖父は作曲家。
そして箏や三味線の演奏家でもあり、
間違いなく日本の音楽界の一時代を担った人であり、
後世に語り継がれるであろう芸術家の一人である事と思います。
書き上げた曲数の多さにも驚きですが、それらが今日多くの人に知られ、
幾度となく再演されている事に、より大きな意味が感じられます。
祖父の音楽はいずれ、ある一時代の象徴になっていくのかもしれません。

以前の私の日記にも少々触れましたが、私はこの伝統音楽の世界に復帰の後、
毎月2度の唯是スタジオのお稽古を優先順位の一等に考えておりました。
スタジオの日(普段、こう呼んでおります)は祖母の中島靖子は妻として、
又祖母として、祖父と私に御揃いのお弁当を作ってくれます。
早朝に出発する祖父を、弁当を抱えた私が後から追いかけるといった流れで
お稽古の日の一日が始まります。
私がスタジオに到着すると大抵 「先に弁当か稽古か。」と聞かれるので、
私は「お決めください。」と申し上げます。
いずれにせよ、お稽古をつけて頂く為に行っておりますので、
稽古が疎かにならないようその時の具合で先か後かを決めて頂く事にしております。

祖父との約束は、「仕上げは暗譜で。」という事でした。
暗譜をしなければならないという圧力があると、
毎日、心のどこかに「弾かなければ・・・」という危機感があり、
祖父はどういう意図で私にそうさせたのかはわかりませんが、
とても有り難い注文を頂いたと思っております。
どれ程の曲数を覚えたかわかりませんが、
短期間で覚えたものは放っておくと忘れていくものですので、
一度覚えた曲を維持するだけでも、意外と大変です。
私の目下の目標は、将来自分のお弟子に、
楽譜を置かず稽古をつけられるようになる事です。
祖父は、私の稽古の時にはそれをほとんど実践して下さいました。
見習う事こそが、弟子の私としての最大の目標であります。

祖父の姿勢には、私の人生観を大きく変えてしまう底知れぬ力が宿っております。
当たり前の事を申すようですが、
私は唯是震一という人間を心から、祖父を心から尊敬しています。


唯是震一は、強く、厳しい人である。
祖父に出会った全ての人が同じ様な印象を持つのではないでしょうか。


ですがここに、孫の私がもう一つ付け加える事が出来るのであれば、
祖父は、私の知る限りで一番、優しい心を持った人です。

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2006/8/21 温故知新

今、私は9月9日に行われます横浜美術館での催しの為に作曲の依頼を頂いており、
箏の独奏曲をウィーン滞在中に書き上げる事が出来ました。
私は日本の楽器の為に今回を含め3曲を書き上げた事になりますが、
私がいつも一番気にするところの ’楽器が鳴る’ ように曲を書く事は、
先人の偉大さを目の当たりにする温故知新の作業に他なりません。
特に三味線という楽器は、
’サワリ’という楽器を共鳴させるための細工が施されているが為に、
転調が出来ない、という欠点がございます。
この場合、欠点と申しますのは、
この三味線の為に考案されたサワリの画期的発案(利点)と表裏一体のもので、
今日の私ごときが、既に完成をみた三味線音楽に敢えて手を変え品を変え、
何か新しいものを生み出そうと試みても、
先人の研ぎ澄まされた感覚には遠く及ばず、
古典作品と呼ばれるその音楽の普遍性と美しさに唯深々と一礼をする結果となります。
だいぶ取っ付き難い日記になって参りましたが、
こうなってしまった以上、続けてしまいます。

先に申しました、転調出来ない、という事についてもう少し詳しく述べます。
音楽というのは、転調をする事で、聴き手を飽きさせない為の作曲家の配慮があります。
近年、調性の音楽がある限界点に達し無調と呼ばれる新境地へ突入したのも、
転調の重要性を示す象徴といえるのではないでしょうか。
日本の音楽も同じです。
その時代ごとに転調に対する試み方が違ってきており、
転調、という視点から曲を聴いておりますと、
長い歴史の中で、新しい一歩がどこで踏み出されたのかがよくわかります。
そこで三味線の話になりますが、
三味線のサワリはその倍音列上の音を弾いた時に細工を施した
一等手前の糸(一の糸)が振動するように出来ており、
これは三味線を弾く者にしかわからない感覚かもしれませんが、弾いている最中、
そのサワリの振動を感じられなくなると、大変不満な気持ちになります。
サワリが共鳴していない状態が続くと、楽器が拒絶したような音を出し、
弾き手としても何とも申し訳ない気持ちになるものです。
つまり、そのサワリの倍音列に束縛された中で、三味線音楽は出来上がっているのです。
というより、三味線のその特性を生かして出来上がった音楽 が、三味線音楽なのでしょう。
民族音楽というものは、楽器の特性を生かして出来上がるものです。
光崎検校という(この方はいわゆる天才であると思います)が作った
千代の鶯 という曲がございますが、私は、あの曲を弾く前と、
弾いた後とで、三味線の状態が明らかに違っていると思います。
弾き終わると、楽器が・・・鳴っているのです。
私はその秘密を色々探ってみましたが、
とにかく、楽器が鳴る曲=傑作 の真理は、絶対にあると思います。
私は、三味線も、箏も、世界中のどの楽器にも、
その楽器の為に作られた曲の意味というものを、いつも感じております。
曲を作る上で、その楽器でなければならない理由!を、見失っては、
そこに何も生まれない気がしております。

こんな変な事を考えながら作曲をしておりますと、
たまに手も足もでなくなり、何も音が動かなくなる事がございます。
この呪縛の中で私は「百鬼夜行」という三味線の曲を作りましたが、
先人に敬意を表する思いで、苦しみながら作曲をしました。
私にとっての作曲は目安として半年、の月日を要します。
これは私が先人の呪縛から開放される為に、
必要な最低の月日であるのだと思っています。

そうまでしてまで、何故、作曲しなければならないのか。
その答えは明白で、私にとっての作曲は、音楽をこよなく愛するこの変な私が、
その持て余す情熱を思いっ切りに注ぐことのできる、
唯一無二の確かな空間だからなのであります。

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2006/8/14 パリ・ローマ 妹と共に

私には11歳離れた妹がおります。名は麗(うらら)と申します。
今回我々がロンドンで仕事をする事が麗にとって
ヨーロッパに行く絶好の機会だと考えた両親の思い切った提案により、
ロンドン、ローマ、ウィーン、の3カ国を周遊する麗の為の、
麗にとっては何とも有り難い計画が立てられました。
両親は仕事があるのでロンドンから日本へとんぼ返りとなり、
とり残された私と、最終的に一人で帰国せざるを得ない未熟な私の妹を心配し、
御好意で数日滞在を延期してくれた教師仲間、
それに私の妹の3名で楽しい旅行をする予定でしたが、
ロンドンからローマへ発つ筈の飛行機が飛ばず、
そこから全ての予定に狂いが生じました。
振り替えの便は数日後というので、
ロンドン在住の親しい友人の助言により陸路でローマへ向かうことにしました。
そのお陰様で、我々はパリへ一日降り立つ機会を得ることになり、
美術館でたくさんの絵画や彫刻に触れることもでき、
名残惜しいままにその夜、夜行列車でローマに向かいました。

私以外の2名は女性だったので、
私物を貸し借りしつつ色々と協力しながら予定変更の危機を乗り越えている様子でした。
御好意で参加して下さった教師の方には、本当に申し訳ない事をしました。列
車内は6人部屋で、同室になった2名のオランダ人の若い女性、一名のフランス人男性と、
夜中まで芸術談義をしました。日常では得難い、貴重な体験でした。

ローマに着くと、飢えていた一行はさっそくおいしいパスタを平らげ、息を吹き返すと、
たった一日しかないローマ滞在の時間を、緻密な計画に従って周りました。

麗は、幼少から絵を書くことに異常な情熱を示し、
芸術に溢れたローマは彼女にとって宝の山の如き様子でした。

ローマを発つその日、ある一人の画家に魅せられた麗は、
その画家の壁画が祀ってある教会に是が非でも行かねばならないとダダをこね、
飛行機の時間を逆算して早朝、教会に行ってはみたものの、私の不安は的中、
教会はまだ閉ざされており、入場を諦めざるをえませんでした。
麗があまりにも落ち込んでいる様子でしたので、優しい兄(私)は、
空港までタクシーで行く事を提案し、途中その教会に寄り、「見学10分。」 
と約束して願いを叶えてやりました。
祭壇に向かって左手に祀られたその壁画は、射し込む朝陽に照らされて、
妹の心を激しく打っている様子でした。
画家の名はカラヴァッジョ (Caravaggio)。
描かれた少年の眼差しは、何か見てはならない物を見てしまっているかのような、
私には何とも言い難い、痛く切なく苦しい絵でした。
その絵を想うと、今でも心は痛みます。

絵や、音楽など、芸術に携わる人間は、歴史的な芸術作品に触れずして、
何かを生み出す事や人の心に触れる物を作り出す事は、
まず考えられないと思います。
あの朝ワガママを言った妹に、
遅ればせながら感謝をする、
今日のこの頃の兄であります。

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2006/8/7 ロンドン

私は7月18日からロンドンの大学で日本音楽を講義するお仕事があり、
ロンドンへ参りました。
当初私はウィーンでの活動を優先したい為、
代役に行ってもらうようお願いしておいたのですが、
様子を伺っているうちに参加する必要性が高くなってきたので、
予定を変更して参加する事に決めました。
尺八サマースクールという題目で行われたこの企画は、
今や当たり前となった海外の尺八演奏者を中心に人が集まった訳ですが、
そこに古典尺八を専門とする私の父が招待されたのがそもそもの始まりでございました。
母を含む三味線、箏の先生は合計5名、
その仕事内容は三味線、箏を習いたいという受講生の指導、
尺八との三曲合奏、コンサートでの演奏、
の3つが主で、私は今回3つ目の演奏は自粛し、
指導と合奏のみに専念させて頂きました。
このお仕事は思っていたよりも大変で、
英語で和楽器を教えることの難しさや個性の強い受講生をまとめる事など、
同席していた私の母と協力しながら厳しい日課をこなしていきました。
教える事は学ぶ事、と教えられましたが、
今回ほどそれを強く感じた事はございませんでした。
出会った全ての方々に、心から感謝しております。

ヨーロッパ滞在も残すところあと1ヶ月程度になって参りました。
9月以降の日本での活動のためにしておかねばならない勉強、
それらに全く手をつけなかった7月。
まるで夏休みの宿題を先送りにする学生時代の私そのままの姿に、
幾分ガックリきております。
人間の根本的な性格は年齢や成長に関係なく、
そう簡単に変わるものでも直るものでもないということなのでしょうか。

ロンドン滞在中は95年ぶりの猛暑だとかいう、
まさにその日にぶつかり、異常な暑さの中、
宿舎と大学片道2キロほどを徒歩で往復いたしました。
道中、世界的に温暖化が騒がれる今日のその原因と、
私が私自身の生活において地球に犯している罪とを振り返らざるにはおれませんでした。
今、自分に出来る限りの事、それを今のうちにやっておかないと、
私の子孫たちを私自身が苦しめている事になるのだと感じております。
そんな私は今、ここウィーンのルールに従って、とりあえず毎日ゴミの分別をしております。

ウィーンはどんなに暑い日でも、木陰に入れば心地よい程度の陽気です。
カフェでも外に設けられた木陰の席から人が埋まっていきます。
数十年後の若者が、この地で同じように心地よい風を感じられる為にも、
世界規模で結束して考えて参りたい今日の環境問題であります。

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2006/7/31 祖母の教え

私は祖母の鞄持ちとして、全国各地へ参り、
又、大切な舞台の時にはなるべく祖母の付き人として側におりました。
祖母の舞台に対する厳しい姿勢、人に対する言葉遣い、気遣い、思いやり、
私は本当にたくさんの事を学ばせて頂きました。
私は今ここで、祖母と共に体験してきた数々の事を思い出すと、
堪らない気持ちになります。
それ程に今日の私にとりまして絶対的な意味を持つ時間でございました。
家元としての立場、心構え以上に、
一人間としての在り方を学んだのだと私は感じております。
「貴方には、気になったことは何でも言わせてもらいます」と宣言された私は、
どんな時も、覚悟を決めて側に付いておりました。
私にとりましての祖母の言葉は、まるで揺るぎ無い真実を示すようで、
正直なところとても恐いものでございます。
そんな祖母が時に、優しく、
おばあちゃんとして話しかけてくれる事もあったのかもしれませんが、
私には、その心配りがわかってあげられた自信がありません。
孫、失格。かもしれませんが、
勉強と家庭とを共存させる事は、本当に成し難いものでした。
ふとした瞬間に、ほんのふとした瞬間にですが、
祖母が疲れているような表情、悲しそうな表情をしている時があるような気がします。
そんな時の私は、孫である自分に今出来る事は何か無いか、
言って上げられる事は無いのか・・・そんな心持ちで必死にございました。
付き人として巡る旅は、家族愛と師弟の厳しさを凝縮した、かけがえのない時間です。
祖母に教えられた事は、一つも忘れておりません。
これらは、私が私の胸に抱きつつ、引き続き精進を重ね、
来たるべき時がきたら私の口から、行動から、
そして演奏から後輩に伝えることが出来れば、と願っております。
私は当ホームページの日記として毎回何を書くべきかを本当に迷いながら、
大切な週に一度の機会を無駄にしたくはないと願いつつ、精一杯に綴っております。

今の私が心に感じる事を整理し公に発信させて頂く事が、
それなりの意味を持ち、
一人でも多くの方と交流させて頂けるキッカケとなることになれれば、
私の心に、新しい一つの希望が誕生いたします。

私はここヨーロッパで、たくさんの西洋絵画に触れました。
私が絵画に対して特に惹かれますのは、光の扱い方です。
希望を表すための光、絶望を強調させるための光、
いずれもが激しい波となって私の心に打ちつけて参ります。
人と向き合うことの多かった東京生活。その感謝を忘れることなく、
私はこの地で今、何か大切な物と向き合っている気がしております。

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2006/7/21 お稽古の事

お稽古。
私が真面目に日本の楽器を勉強しようと硬く決意した後、
祖母のお稽古を週一回、祖父のお稽古を月2回、余程の事が無い限り、
休むことなく伺うよう心掛けました。
両師匠それぞれに、それぞれの教え方があって、
私は同時期に平行してお二人に稽古をつけて頂けた事が、
大変得がたい体験、そして勉強になったと思います。
稽古は礼に始まり、礼に終わる。
礼に挟まれた神聖な時間は、ただただ精一杯の時間でした。
お稽古とは、"思い通り上達しない自分の不甲斐なさに落胆する"、
それが私にとっての一番の印象です。
祖父の言葉、祖母の音色を目の当たりにして、どのようにしたら、
少しでも師に近づく事が出来るのであろうかと、必死で模索致しました。
練習、練習、そして暗譜、暗譜、を繰り返しているうちに、
少しずつ、楽器が私のやろうとする事に答えてくれるようになりました。
楽器というのは本当に不思議で、その人間に見合った音を出してくれます。
私は祖母の箏の音に魅せられ続けておりますが、
暖かく、優しく、堂々としていて、まるで祖母の人間性を反映しているかのようです。
私は、どの楽器でも、全ての曲を暗譜するというその姿勢こそが、
祖父と自分との約束でした。
古典曲、現代曲、琵琶のもの、胡弓のものも含め、
私はこの道で生きていくと決めた以上、
同級の友人達が就職活動に励む中、仕事をしている中、
せめてそれを自分への義務にしていないと、気持ちがおかしくなりそうでした。
私は弱い人間なので、自分で自分を焦らぬよう誤魔化すのに必死でした。

最近、こんな私を慕ってくれる弟子がチラリホラリと現れ、
大変嬉しく思っておりますと共に、責任の重さを感じながら努めております。
私の致します稽古のスタイルは祖父の感じとも違い、
祖母の感じとも違っている気がしています。
その要因は私の力量不足に関係なく、
家族に教えるか、そうでないかの違いであると思います。
こちらウィーンでは、
「3回目で合奏をしましょうね」をお弟子さんとの目標にしておりますが、
とにかく私は手取り足取りやり過ぎて、返って色々言い過ぎる傾向がある気がします。
それに対し祖父母の稽古は、本当に必要最低限の注意だけで、
じっくりと、時間を掛けて、確実に育てようとしていてくれた事が、
今になってみてよくわかります。

注意をされる事の有り難さ。

これが稽古の素晴らしさです。
私は、私の事を本気で叱ってくれる人がいる事を、大切に大切に想っております。
どんな方でも私の為を思って助言して下さる方の有り難さに、
立場や経験の差はございません。
年上でも年下でも、私に、何事も遠慮する事なくはっきりと、
厳しく言って下さる事の大切さは特別なものでございます。
私に欠けております客観性を補って下さるのは、
他ならぬ、私以外の皆様しかおりません。

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2006/7/12 ウィーン

こちらに来て、3週間余りが経とうとしています。
毎日素晴らしい体験ばかりです。
初めてこの地を訪れたのは、私が邦楽の活動を止めていた頃の事で、
歳は19の頃であったように思います。
当時の私は西洋音楽(とりわけベートーベン)に激しく魅了されておりました。
この大作曲家がかつて活躍し、苦労をし、
そして今も尚その地に眠るウィーンという場所へ、
一度訪れてみたいものだとその時私は思い立った訳でございます。
元来、私は一人旅が好きで、その後も色々な地へ参りましたが、
何を隠そうともその時のウィーン旅行が生まれて初めての一人旅でしたので、
実際には少々の不安がございました。
それでもそれ以降、幾度となく同地へ参り、
そこで友人知人を少しずつ作ることができ、
今こうしてここウィーンに腰を据える事がいよいよ実現致しました。
今回ウィーンへ旅立つ直前、私は、私の尊敬するある方に、
以下二つの事を言われました。
・真の芸術家、その人生は孤独である
・命懸けで芸をしなければ、なにも伝わらないし残らない
初めてこの地を訪れてから約8年、
私はこの街との思い出を一人占めしている反面、
いつも一人で思い返しては、一人、胸が熱くなります。
ベートーベンの苦しい生涯、名作を作る代償に聴覚を失う悲劇、
私は彼のそのあまりにも孤独な人生を思うと、いつも辛くなります。
ただ、芸術家、特に作曲家はその人生がどんなものであろうとも、
結局その人間の価値は100年、200年後に残っている作品、
その時々人々に与える「救い」や「感動」、それが全てなのかもしれません。
私はベートーベンが彼の生涯の中でどれ程多くの人に迷惑をかけ、
又どれほど沢山の愛人知人を裏切り深く傷つけたとしても、
その後彼が人々に与えた「救い」「感動」の大きさを考えれば、
彼の遺産はそれら悪行を補って余りあるものであると私は感じています。
私は私の人生に於いて、人々とは助け合って生きていきたい。そう願っております。
もし仮に私の中に名作を生み出すだけの才能と可能性が有った場合でも、
私には何かを犠牲にしてまで音楽を優先する自信がありませんし、
そうあってはいけないと思っております。
それでも私は、今後もここへ足を運び、
ウィーンでもう一つ自分の居場所を見出し、
ここウィーンが音楽と純粋に向き合える為の、
作曲をする為の場所となれれば素敵であろうと、強く願っています。
私はここへ来る度に、まず最初にするのがお墓参りです。
ウィーン中央墓地に眠る大作曲家ベートーベン。
私は今後何があろうとも、彼の音楽にどんな時も深々と頭を下げ、
心からの敬意と、感謝の気持ちを捧げます。

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2006/7/5 大切な日

私には忘れがたい日があります。
高校生になったある日、
その日は初めて祖父の稽古場へ行く約束をしていた日、
朝食事をしている途中でしたが、突然涙が止まらなくなりました。
父も母もその場にいたので、私は訳もわからずとりあえず席を立ち、
となりの八幡様(神社)の境内の柱の影へ身を潜め、
止まらない涙をぬぐっておりました。
幼少から祖母に箏を手ほどきされていた私にとって、
これは生涯たった一度の大きな反発でした。
「自分の足で、生きて行きたい。」
という思いでした。幼少から与え続けられたものに、
その時、激しい不信感を抱いてしまったようでした。
この日から5年間、たったの一度たりとも邦楽器に触れる事はありませんでした。
その日の夜祖母から電話があり、「ごめんね」と言われた瞬間、
大好きなおばあちゃんを裏切ったという気持になり、
申し訳ない想いでその日は一晩泣き明かしました。
これは邦楽界に舞い戻った今だからこそ、冷静に綴れる話です。
もう一度学び直そうと硬く決意してからは、
祖父、祖母という意識を私はほとんど捨たように思います。
芸道の精進は、厳しいものになると覚悟を決め、
師匠である祖父母に対して精一杯の姿勢で臨もうとしました。
おばあちゃんっ子であった私は、
お互い歩く速度もゆったり、考え方ものんびりと、
一族で出かける時は先頭をゆく祖父に対し
いつも二人で列の後ろを手をつないで歩いておりました。
寝るときも、祖母の隣に布団を敷きました。
ここ数年の間、祖父母に向かって、おじいちゃん、おばあちゃん
そう呼べなくなりました。きっとこれからも、呼べないであろうし、
それで良いのだと私は思っております。
これが、私が自分で選んだ道なのであります。
おじいちゃん、おばあちゃん、いつまでも、元気でいて下さい。
今この瞬間、遠く離れたウィーンで、心からそう願っています。

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2006/6/27 ヨーロッパからご挨拶

今、私は音楽の都ウィーンにおります。
日本伝統音楽の家系に生まれた私にとりまして、
今日何かと思い詰める事が少なくありません。
ゆるぎない事実として、今、私の身の周りには
私にとって大切な人が余りにも多く、
その暖かさが時に切なく、悲しく、
といった反作用になる事があるのだと、最近痛感しております。
そんな環境にいる自分から一歩距離を置いて、
今、この瞬間私はここウィーンから、初めての公開日記を綴ります。

当ホームページは私自身の活動における
宣伝や御案内を目的としたものではございません。

今回ホームページ製作を決意しました理由は、
普段私の難しい立場上どうしてもお知り合いになり難い方々が、
全国各地、意外に多くいらっしゃるという事を四方八方よりお伺いし、
なかなか触れ合うことの出来ない皆々様に親しみを持って接して頂ける為の、
私の微力な試みに他なりません。
諸事情により掲示板の開設は回避させて頂きましたが、
私にお寄せ頂いたご意見、ご感想、ご相談等には、
可能な限り誠意を持ってお答えできればと存じております。
ご返信できない事も間々あるかと存知ますが、
全てのメッセージは必ず私自身で目を通して参ります。
勝手をお許しくださいませ。


日本伝統音楽の世界は、独特な世界です。
この世界にいれば、良いことは勿論、苦しいことも絶対にあります。
しかし、独特であっても無くても、
音楽にとって大切なのは「音楽が美しい」事であり、

それ以上もそれ以下も無いものと私は思っております。
三味線の音締、箏の爪音、その感動の中にこそ
邦楽界の未来があるのではないでしょうか。

皆様、ご賛同される方もそうでない方も、
一緒に手を取り合って確かな一歩進む事が必要な時期です。
どうか未熟にも至らぬこんな私に皆々様のお力を頂けますよう、
心からのお願いを申し上げます。

※日記の更新は、週一回程度を予定しております

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All right reserved. 2006 (c) Utanoichi Okuda